資本論第一巻(読書会)(目次)
2025.3.8改定
|
![]() | 第二章 | 第4章 | 第6章 | 第8章 | 第10章 | 第12章 | 第14章 | 第16章 | 第18章 | 第20章 | 第22章 | 第24章 | ![]() |
第一巻第一章(商品) | 第3章 | 第5章 | 第7章 | 第9章 | 第11章 | 第13章 | 第15章 | 第17章 | 第19章 | 第21章 | 第23章 | 25章欠 | ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() |
|
![]() 資本論/第2版への著者の序文 2025/01/24 経済学は、ドイツでは今日まで外国の科学でしかなかった。・・・つまり、経済学を育てる土壌がなかったのである。経済学はイギリスとフランス から完成品として輸入された。(原p19) 1848年以来、資本主義的生産はドイツで急速に発展し、現在では既にその幻惑の花を咲かせている。しかし、・・・彼らが経済学を素直に扱うことが できた時代は、ドイツの現実には近代的な経済関係は存在しなかった。そして、このような関係が現れたときには、それは、ブルジョアの視界の なかではこの関係のとらわれない研究をもはや許さないような事情のもとで行われたのである。経済学がブルジョア的である限り、すなわち、 資本主義的秩序を社会的生産の歴史的に過ぎ去る発展段階としてではなく、反対に社会的生産の絶対的最終形態として考える限り、経済学が科学 でありうるのは、ただ、階級闘争がまだ潜在的であるか、または個別的現象としてしか現れていないあいだだけのことなのである。(原p20) イギリスを例にとろう。イギリスの古典派経済学は、階級闘争がまだ未発達であった時代に属している。その最後の偉大な代表者であるリカルド は、ついに意識的に、階級的利害の対立、つまり賃金と利潤との対立、利潤と地代との対立を、彼の研究の跳躍点とするのであるが、彼は、こ (Gegensatz der Klasseninteressen,des Arbeitslohns und des Profits des Profits und der Grundrente ) の対立を素朴に社会的自然法則と考えることによって、そうするのである。 (er diesen Gegensatz naive als gesellshaftliches Naturgesets auffast.) しかし、またそれと同時に、ブルジョア経済学は、それを越えることができない限界に達してしまったのである。すでにリカルドの存命中に、 そして彼に対立して、ブルジョア経済学に対してはシスモンディという人物の姿をとって批判が立ち向かったのである。 その後、1820年から1830年にかけて、イギリスでは、経済学の領域における科学的活動が注目された。この時期は、リカルドの理論の卑俗化と 普及の時期であると同時に、その理論と旧派との争いの時期でもあった。華やかな試合が行われた。そのとき何が行われたかは、大陸では一般 にほとんど知られていない。なぜなら、その論戦は、ほとんどの場合、評論の記事、折々の文献や小冊子に散見されるからである。 この論戦の偏りのない性格は、リカルドの理論がすでに例外的にブルジョア経済に対する攻撃の武器として役立っているとはいえ、この性格は、 当時の事情から説明のつくものである。一方では、大工業そのものがまだその幼年期を抜け出したばかりの時で、このことは、1825年の恐慌に よって、初めて大工業がその近代的生活の周期的循環を開始したという事実によっても既に証明されている。他方、資本と労働との間の階級闘争 も、政治的には、神聖同盟の周りに集まった諸政府や諸侯と、ブルジョアジーに率いられた民衆とのあいだの抗争によって、また経済的には産業 資本と貴族的土地所有との対抗によって、まだ後方に押しやられていた。このあとの方の対抗は、フランスでは分割地所有と大土地所有との対立 の背後に隠れていたが、イギリスでは穀物法以来、あからさまになってきた。この時期のイギリスの経済学文献は、ケネー博士の死後、フランス での疾風怒濤時代を思い起こさせるが、しかしそれはただ小春日和が春を思い起こさせるようなものである。1830年、決定的な危機が訪れた。 ブルジョアジーは、フランスとイギリスでは既に政治権力を獲得していた。それ以来、階級闘争は、理論的にも実践的にも、ますます露骨で険悪 な形をとるようになった。それは、科学的ブルジョア経済学の弔鐘(Totenglocke)を鳴らした。いまや問題は、もはや、これとあれとどちらの 定理が正しいかではなく、それが資本にとって有益か有害か、好都合か不都合か、反警察的か否かが問題とされるようになった。私利をはなれた 研究に代わって金で雇われた喧嘩売りが現れ、とらわれない科学的研究に代わって弁護論の無良心と悪意が現れた。しかし、工場主であるコブデン やブライトに率いられた反穀物法同盟が世間にまき散らしたあつかましいパンフレットでさえ、決して科学的ではないにしても、地主貴族に対す るその攻撃によって、歴史的な関心を呼んだ。この最後の棘をさえも、ロバート・ピール卿以来の自由貿易立法は、俗流経済学から抜き去って しまったのである。 1848年の大陸の革命は、イギリスにもはね返ってきた。まだ何らかの科学的立場を主張し、支配階級の単なる詭弁家や追従者以上のものであろう とした人々は、資本の経済学を、もはや無視できなくなったプロレタリアートの要求と調和させようとした。それ故に、ジョン・スチュアート・ ミルによって最もよく代表されているような無気力な折衷主義が現れたのである。これこそは、「ブルジョア」経済学の破産宣言であり、それは、 ロシアの偉大な学者であり批評家であるN.チェルヌイシェフスキーがその著『ミルによる政治経済学概説』の中で既にみごとに明らかにしている ものである。 こうして、フランスとイギリスでは資本主義的生産様式の敵対的性格が既に歴史的な諸闘争によって騒々しく露呈された後に、ドイツではこの 生産様式が成熟に達したのであるが、そのとき既に、ドイツのプロレタリアートは、ドイツのブルジョアジーよりもはるかに明確な理論的階級 意識をもっていたのである。こうして、ブルジョア経済学がドイツでようやく可能になるかに思われた時、それはすでに再び不可能になって しまったのである。 こうして、ドイツ社会の特有な歴史的発展は、この国において、「ブルジョア」経済学の独創的な育成をすべて排除したのであるが、しかし それに対する批判は排除しなかったのである。 およそこのような批判が1つの階級を代表する限り、それは、ただ、資本主義的生産様式の変革と諸階級の最終的廃止とを自分の歴史的使命と する階級、すなわちプロレタリアートだけを代表することができるのである。(p18) 『資本論』の優れたロシア語訳が、1872年の春に出版された。3,000部という部数は、すでにほとんど売り切れている。1871年にはすでに、 キエフ大学の政治経済学の教授であるN・ジーベルが、その著作『デイヴィッド・リカルドの価値及び資本に関する理論』の中で、私の価値、 貨幣、資本の理論は、その根本において、スミスとリカルド学説の必然的発展であることを、論証した。この優れた著作を読んで西ヨーロッパ 人を驚かせたのは、著者が純粋に理論的な立場を一貫して堅持していることであった。 『資本論』で採用された方法がほとんど理解されていないことは、それについて形成された、互いに矛盾するさまざまな概念によって示され ている。・・・『資本論』の方法について・・・ サンクトペテルブルグの『ヨーロッパ通信』は、『資本論』の方法だけを扱った記事(1872年5月号、427-436頁)で、私の研究方法は厳密に 実在論的であるが、叙述方法は、残念ながらドイツ的弁証法的である、ということを見出している。同誌は次のように言っている。 「叙述の外形から判断すれば、一見、マルクスは最大の観念論哲学者であり、しかも、この語のドイツ的な意味で、つまり悪い意味で、そう なのである。しかし、実のところ、彼は、経済学批判の仕事において、彼の先達の誰よりも、限りなく現実的(Realist)である。彼は決して 観念論者(Idealisten)とは呼べない」。私は、ロシア語の原文にアクセスできない読者のために、彼自身の批評からのいくつかの抜粋を提供 する以外に、この作家に答えることはできないだろう。 ・(p20) 私の『政治経済学批判』ベルリン、1859年、11-13頁の序文からの引用で、私の方法の唯物論的基礎を論じた後、この作家は次のよう に続ける。「マルクスにとって重要なことは、彼が研究している諸現象の法則を発見することである。・・・彼にとってさらに重要なのは、諸現象 の変化や発展の法則、すなわち、ある形態から他の形態への移行、関連の1つの秩序から他の秩序への移行の法則なのである。この法則を いったん発見すると、彼は、この法則が社会生活において現れる諸結果を詳細に調査する。・・・厳密な科学的研究によって、社会的諸関係の特定 の諸秩序の必要性を論証し、彼のために出発点及び支点として役立つ諸事実を可能な限り欠陥なく確定するということだけである。 このためには、彼が現在の秩序が必然性を論証すると同時に、この秩序が不可避的に、即ち、人間がそれを信じるか信じないか、それを意識 するかしないかには少しもかかわることなく、移行せざるを得ない他の一秩序の必然性を論証すれば、それで全く充分なのである。 マルクスは、社会の運動を1つの自然史的過程とみなしており、この過程を導く諸法則は、人間の意志や意識や意図から独立しているだけでは なく、むしろ逆に、人間の意欲や意識や意図を規定するものだと考えている。・・・もし意識的要素が文化の歴史で果たす役割が、このように 従属的なものだとすれば、文化そのものを対象とする批判は、他の何にもまして、意識のいかなる形態、あるいはいかなる結果も、その基礎と することはできないということは自明である。即ち、この批判のためには、観念ではなく、ただ外部の現象だけが出発点として役立つことが できるのである。批判は、ある事実を、観念とではなく、他の事実と比較対照することに限られるであろう。この批判にとっては、ただ、両方 の事実ができるだけ精確に研究されて、現実に一方が他方に対して違った発展契機をなしているということだけが重要なのであるが、なかでも とりわけ重要なことは、それに劣らず精確に、諸秩序の系列が探求されるということである。しかし、ある人は言うであろう。経済生活の 一般的な諸法則は同一のものであって、人がそれを現在に適用するか過去に適用するかには何の関わりもないのだ、と。これこそ、まさに マルクスの否定するところである。彼によれば、そのような抽象的な法則は存在しないのである。・・・彼の考えでは、それとは反対に、歴史上 のそれぞれの時代がそれぞれの固有の諸法則を持っているのである。・・・生命は、与えられた1つの発展期間を過ぎてしまって、与えられた 一段階から他の段階に移れば、別の諸法則によって導かれるようになる。簡単に言えば、経済生活は、生物学の他の諸領域での発展史に似た 現象を、我々に示しているのである。・・・古い経済学者たちは、経済諸法則の性質を誤解していたので、これを物理学や化学の諸法則になぞら えたのである。・・・諸現象のもっと深い分析は、いろいろな動植物有機体と同様に社会的諸有機体も互いに根本的に違ったものであることを 証明した。・・・実際、これらの諸有機体の全体構造の相違、その個々の器官の差異、これらの器官が機能する諸条件の相違などによって、同一 の現象が全く違った法則に従うことになるのである。例えば、マルクスは、すべての時代、すべての所を通じて人口法則が同じだということ を否定する。反対に、彼は、それぞれの発展段階にはそれぞれの固有の人口法則があるということを確言する。・・・生産力の発展が違うに 従って、諸関係もそれを規制する諸法則も変わってくる。マルクスは、このような観点から、資本主義経済秩序を探求し説明するという目標 を立てることによって、ただ、経済生活の精確な研究がどれでも持っていなければならない目標を、厳密に科学的に定式化しているだけなの である。・・・このような研究の科学的価値は、ある1つの与えられた社会的有機体の発生、存在、発展、死滅を規制し、また他のより高い有機体 とそれとの交替を規制する特殊な諸法則を解明することにある。そして、このような価値を、マルクスの著書は実際に持っているのである。」 この筆者は、彼が私の現実的方法と呼ぶものを、このように的確に、そして私個人によるこの方法の適用に関する限りでは、このように好意的 に、述べているのであるが、これによって彼が述べたのは、弁証法的方法以外の何であろうか? もちろん、叙述の仕方は、形式上、研究の仕方とは区別されなければならない。研究は、素材を細部にわたってわがものとし、素材のさまざま な発展形態を分析し、これらの発展形態の内的な紐帯を探り出さなければならない。この仕事をすっかりすませてから、初めて、現実の運動を それに応じて叙述することができるのである。これがうまくいって、素材の生命が観念的に反映することになれば、まるで先験的な(a oriori) 構成がなされているかのように見えるかもしれないのである。 私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは異なっているだけでなく、その正反対である。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名の もとに、一つの独立した主体にさえ転化させている思考過程が、現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなし ているに過ぎないのである。これに対して、私の場合には、観念的なものは、物質的なものが人間の頭の中で転換され翻訳されたものにほか ならないのである。 ヘーゲル弁証法の神秘的な側面を、私は30年近く前に、まだそれが流行していた時に、批判した。ところが、ちょうど私が『資本論』の第一巻 の仕上げに取り組んでいた頃、いまドイツの知識階級のあいだで大言壮語している不愉快で不遜で無能な亜流が、ヘーゲルを、ちょうど レッシングの時代に勇敢なモーゼス・メンデルスゾーンがスピノザを取り扱ったように、すなわち、「死んだ犬」として取り扱っていい気に なっていたのである。それゆえ、私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは、彼に 特有な表現様式に媚びを呈しさえしたのである。弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態をはじめて 包括的で意識的な仕方で述べたということを妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮の中に合理的な 核心を発見する為には、それをひっくり返さなければならないのである。 神秘化された形態では、弁証法はドイツで流行した。というのは、それが現状を光明で満たすように見えたからである。その合理的な形態では、 弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとって腹立たしいものであり、恐ろしいものである。なぜならば、それは、現状の肯定的 理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、いっさいの生成した形態を運動の流れの中で捉え、従ってまたその過ぎ去る 面から捉え、なにものにも動かされることなく、その本質上批判的であり、革命的であるからである。 資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実際的なブルジョアには、近代産業が通過する周期的循環の局面転換のなかで最も痛切に感ぜられる のであって、この局面転換の頂点こそが、一般的恐慌なのである。この一般的恐慌は、まだ前段階にあるとはいえ、再び進行しつつあり、 その舞台の全面性によって、その作用の強さによっても、新しい神聖プロイセン−ドイツ帝国の成り上がり者達の頭にさえ弁証法を叩き込む であろう。 ロンドン、1873年1月24日 カール・マルクス 2025/01/24 記 ★TOP ★第2版後記序文(pdf) |
カール・マルクス:『資本論』(第1巻) ★TOP 2025/01/21 ※底本は、WEB掲載の「資本論」(第1巻) 訳者 宮崎 恭一(1887年にイギリスで発行された版(英語版)に基づいている。ただし、・・・ 英語版では、ドイツ語版と訳文や用語などが相当に異なっているので要注意である。また、ここでは、読みやすいように下記の訳書を参照(引用)した。 (大月書店の1973年版(全5分冊)と新日本出版社2019年初版新版『資本論』を参照した。 また、ドイツ語版1969年版、と、英語版も時によって参照した。例えば、第一節にある「小麦と鉄」は、ドイツ語版では、weisen und Eisenであるが、 英語版では、「トウモロコシと鉄」corn and ironとなっている。 ここでは、前者のドイツ語版の用語を採用した。また、()は段落である。) 第一巻 資本の生産過程:第一篇 商品と貨幣:第一章 商品 第一節:商品の二つの要因。使用価値と価値(価値の実体と価値の大きさ)。(原p49) (1)資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、1つの「巨大な商品集積」として現われ、個々の商品は、その富の要素形態として現れる。 それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。 (erschint als eine "ungeheure Warensammlung",die einzelne Ware als seine Elementarform.) (2)商品は、まず第一に、1つの外的対象であり、その諸属性によって人間の様々な欲求を満たすものである。 その欲求が、例えば胃袋からであろうと、幻想からであろうと少しも事柄を変えるものではない。 ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満たすか、−直接に生活手段として、即ち享受の対象としてか、それも回り道をして、生産手段として か−ということも問題ではない。 (3)おのおのの有用物、鉄や紙等々は、二重の観点から、即ち、質及び量の観点から考察される。これらのものは、それぞれ多くの属性の全体であり、 従って様々な用途に使える。 これらのいろいろな面と、従ってまた物の様々な使用方法とを発見することは、歴史的な行為である。有用な物の量を計る ための標準的な方法も、社会的に確立されてきたものである。様々な商品尺度の相違は、あるものは計られる対象の性質の相違から生じ、あるものは慣習 から生ずる。 (4)ある物の有用性は、その物を使用価値(Gebrauchswert)にする。しかし、この物の有用性は空中に浮かんでいるのではない。この有用性は、その 商品体の諸属性によって制約されているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄、小麦、ダイヤモンドなどのような商品体そのものが、使用価値 または財である。商品体のこの性格は、その使用上の諸属性を獲得するために人間が費やす労働の量には関わりがない。使用価値の考察に際しては、 常に、その量的規定性が前提されている。1ダースの時計とか1ヤードのリネンとか1トンの鉄とかのように。商品群の各使用価値の諸々については、 一つの独自な学科である商品学の材料を提供する。 使用価値は、使用や消費においてのみ、実現される。使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。われ われが考察しようとする社会形態においては、それは同時に、交換価値(Tauschwert)の素材的担い手をなしている。 (5)交換価値は、さしあたり、ある一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、即ち、比率として現れる。それは、時と所と ともに絶えず変動する関係である。このため、交換価値は偶然的で全く相対的なものであるように見える。したがって、商品に内的な、内在的な交換価値 (”固有価値”)というのは、1つの”形容矛盾”に見える。 事態を、もっと詳しく考察してみよう。 (6 )与えられた一商品、例えば、1クオーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するに極めて様々な比率で他の諸商品と交換され る。だから、小麦はただ一つ交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値を持っている。 しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金なども、 どれも1クオーターの小麦の交換価値であるから、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、互いに置き換えうる、または互いに等しい大きさの諸交換 価値でなければならない。そこで、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし、第二に、交換 価値とは、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。 (7 )さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄をとってみよう。それらのものの交換比率がどうであれ、この比率は、常に、ある与えられた量の小麦が どれだけかの量の鉄に等値される1つの等式、たとえば、1クオーターの小麦=aツェントナーの鉄 によって表されうる。 (※ 1Quarter Weizen = a Ztr. Eizen) Ztr.=Zentner ツエントナー=重量単位=50Kg) この等式は何を意味するか? 同じ大きさの1つの共通物が、2つの異なった物のなかに、即ち、1クオーターの小麦の中にもaツェントナーの鉄の中に も存在するということである。 従って、両者は、それ自体としては一方でもなければ他方でもない、ある第三のものに等しい。 従って、両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない。 (8 )簡単な幾何学図で説明してみよう。多角形の面積を求めたり比較したりする場合、我々は三角形に分解して計算する。ところで、三角形の面積は、 その形とは別な、底辺×高さ÷2で表される。同じ様に、様々な商品の交換価値は、各商品に共通のある物で、その量の多いか少ないかで表すことができ るということである。 (9 )この共通のある物は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではあり得ない。そもそも商品の物体的諸属性が問題になる のは、ただ、それらが商品を有用なものにし、従って使用価値にする限りでのことである。ところが、他方、諸商品の交換関係を明白に特徴づけるもの は、まさに諸商品の使用価値の捨象である。この交換関係の内部では、1つの使用価値は、−それが適当な比率で存在していさえすれば−他のどの使用価値 とも全く同じものとして通用する。・・・使用価値としては、諸商品は、何よりもまず、相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえ ず、従って、1原子も含まれていない。 (10 )そこで、商品体の使用価値を度外視すれば、商品体にまだ残っているのは、1つの属性、即ち、労働生産物という属性けである。とはいえ、労働生 産物もまた我々の手で変えられている。もし、我々が、労働生産物の使用価値を捨象するならば、我々は、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分 と諸形態もまた捨象しているのである。もはやそれはテーブルでも家でも糸でも、その他の有用物でもない。その感性的性状はすべて消し去られている。 それはまた、もはや、指物労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物でもない。従って又、これらの労働の様々な具体的形 態も消え失せ、これらの労働は、もはや、互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同等な人間的労働、即ち、抽象的人間的労働に還元されている。 (gleiche menschliche Arbeit,abstrakt menschliche Arbeit・・・p52) (11 )そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じ幻のような対象性以外のなにものでもなく、区別 のない人間的労働の、即ち、その支出の形態には関わりのない人間的労働力の支出の単なる凝固体以外のなにものでもない。これらのものが表しているの は、もはやただ、これらの物の生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積されているということだけである。これらの物に共通な、この 社会的実体の結晶として、これらの物は、価値−商品価値である。 (12 ) 諸商品の交換関係そのものの中では、商品の交換価値は、その使用価値には全くかかわりのないものとして現れた。そこで、実際に労働生産物の 使用価値を捨象してみれば、丁度いま規定されたとおりの労働生産物の価値が得られる。だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現れる共通物は 商品の価値なのである。研究の進行は、我々を、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値に連れ戻すことになるだろう。 しかし、この価値は、さしあたりまずこの形態にはかかわりなしに考察されなければならない。 (13 ) だから、ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、この 価値の大きさはどのようにして計られるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、即ち、労働の量によってである。労働の量そのもの は、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた1時間とか1日とかいうような一定の時間部分をその度量標準としている。 (14 ) すると、ある人は、こんな風に考えるかも知れない。その物に費やされた労働の量で商品の価値が決まるなら、怠惰で、未熟な労働者の作った 商品の方がより価値があることになる。なぜなら、彼の生産物にはより長い時間を必要とするだろうからと。しかし、諸価値の実体をなしている労働と は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値となって現れる社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成っているのでは あるが、ここでは一つの同じ人間労働力と見なされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、この ような社会的平均労働力として作用し、従って一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とする限り、他の 労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練及び強度の社会的平均度とをもって、 なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。 (Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit,erheischt,um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensitat der Arbeit darzustellen.・・・p53) 蒸気織機を導入した英国では、一定量の糸を織物にするために必要な労働時間をおおよそ1/2に減らした。手織りの場合は、従来と同じ時間を要したが、 実際に、この影響を受けて、一時間の労働が、半時間の社会的労働で置き換えられ、その結果、以前の価値が半分に低落した。 (15 )従って、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働量、即ち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけで ある。個々の商品は、ここでは一般に、それが属する種類の平均見本と見なされる。従って、等しい大きさの労働量が含まれている諸商品または、同じ 労働時間で生産されることのできる諸商品は、同じ価値量を持っているのである。 一商品の価値と他の各商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい。 「価値としては、すべての商品は、ただ、一定の大きさの凝固した労働時間でしかない。」 (16 ) それゆえ、もしある商品の生産に要する労働時間が不変であるならば、その商品の価値の大きさも不変であろう。しかし、この労働時間は、労働 の生産力に変動があれば、その都度変動する。労働の生産力は、様々な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその 技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模及び作用能力によって、さらにまた、自然事情によって、規定されている。 例えば、同じ労働量が豊作の時なら、8ブッシェルの小麦の収穫となるが、不作の時なら、4ブッシェルの収穫に終わる。同じ労働量が、鉱脈豊かな鉱山 では、貧弱な鉱山より多くの金属を産出する、等々。・・・一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、その物の生産に要する労働時間は短く なり、その物に結実している労働はそれだけ小さく、その物品の価値は小さくなる。逆に、労働生産性が小さくなればなるほど、その物の生産に要する 労働時間はそれだけ長くなり、その物の価値はそれだけ大きくなる。つまり、一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、 その労働の生産力に反比例して変動するのである。(Die Wertgrose einer Ware wechselt also direkt wie das Quantum und umgekehrt wie die Oroduktivkraft der sich in ihr verwirklichenden Arbeit.・・・p55) (17 ) ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。それは、人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合で ある。空気、処女地、自然の草原や野生の樹木等がそれである。 また、なかには、有用であり、人間の労働の生産物であっても、商品とはならない物も ある。直接的に自分の欲求を満たすために自分の労働によって作った物は、まさに、使用価値はつくるが、商品は作らない。商品を生産するためには、 彼は、使用価値を作るだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を作らなければならない。 最後に、物に有用性(使用対象性)が欠けていれば、何物も価値は持たない。もし、無用な物であれば、そこに労働が含まれているとしても、その労働 は労働とは見なされず、その労働は価値を形成しないのである。 (第1節 了/原p55/大月版p56/新版p76) ★TOP ★この節のtop |
第一節:商品に表される労働の二重性 (原p56)(1) |
![]() |
『資本論』学習会(2012.9.20〜2014.7.21)総索引 ・第3巻読書録のブログ目次(Yahooから移転:2019.6.18) (序)資本論第3巻学習会(レポート1)・全3巻の構成と第1・2巻の復習 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482758037.html ここではまず最初に、『資本論』全3巻の目次を掲げる。 (マルクスの自筆経済表貼付・1863.7.6エンゲルス宛「資本論」に関する手紙p129参照) (1)『資本論』全3巻を3年間で読み切る学習会(レポート2) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482753918.html (2)第1章:費用価格と利潤 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482734385.html (3)第2章:利潤率 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482720357.html (4)第3章:利潤率の剰余価値率に対する関係 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482716875.html (5)第4章:利潤率に対する回転の影響 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482714863.html (6)第5章:不変資本の使用における節約 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482712657.html (7・8)第6章:価格変動の影響/第7章 補遺 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482711442.html 第2篇・利潤の平均利潤への転化 (9)第8章:生産部門の相違による資本構成の相違とそれにもとづく利潤率の相違 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482658427.html (10)補論1、『「資本論」に関する手紙』から @ https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482644822.html (11)補論2、『「資本論」に関する手紙』から(続き)A(マルクスの経済表貼付) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482642190.html 第2篇利潤の平均利潤への転化 (12)第9章平均利潤率の形成と商品価値の生産価格への転化 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482634446.html (13)第10章@競争による一般的利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482630820.html (14)第10章A競争による一般的利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482627580.html (15)第10章B競争による一般的利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482621197.html (16)第11章 生産価格に対する労賃の一般的変動の影響 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482619032.html (17) 第12章 補遺 (資本の物神性の昂進) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482618017.html (18)第3篇 利潤率の傾向的低下の法則/第13章 この法則そのもの https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482609810.html (19)第14章 反対に作用する諸原因 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482607768.html (20)第15章 この法則の内的諸矛盾の展開 その@ https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482606039.html (21)第15章・第3節・人口の過剰を伴う資本の過剰A https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482604443.html (22)第4篇 商品資本と貨幣資本との商品取引資本と貨幣取引資本とへの転化 (商人資本)/第16章 商品取引資本 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482597267.html (23)第17章 商業利潤 (その1) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482596202.html (24)第17章 商業利潤 (その2) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482595883.html (25)第17章 商業利潤 (その3) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482595358.html (26)学習会資料・商業利潤全体の概要 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482594754.html (27)第18章、商人資本の回転。価格(その1) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482592302.html (28)第18章、商人資本の回転。価格(その2) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482591148.html (29)第19章、貨幣取引資本 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482586730.html (30)第20章、商人資本に関する歴史的考察(その1) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482586047.html (31)第20章、商人資本に関する歴史的考察(その2) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482585601.html (32)第5篇 利子と企業者利得とへの利潤の分裂 第21章、利子生み資本(その1) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481926493.html (33)第21章、利子生み資本 (その2) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482604443.html (34)第22章、利潤の分割 利子率 利子率の「自然的」な率 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482597267.html (35)第23章、利子と企業者利得 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481919865.html (36)第24章、利子生み資本の形態での資本関係の外在化 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481918279.html (37)第25章、信用と架空資本 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481916535.html (38)第26章、貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481912535.html (39)第27章、資本主義的生産における信用の役割 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481910630.html (40)第28章、流通手段と資本 トゥクとフラートンとの見解 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481903863.html (41)第29章、銀行資本の諸成分 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481901951.html (42)第30章、貨幣資本と現実資本T https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481896480.html (43)第31章、貨幣資本と現実資本U https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481882153.html (44)第32章、貨幣資本と現実資本V(結び) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481879086.html (45)第33章、信用制度のもとでの流通手段 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481876224.html (46)第34章、通貨主義と1844年のイギリスの銀行法 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481869542.html (47)第35章、貴金属と為替相場 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481867746.html (48)第36章、資本主義以前(T) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481865481.html (49)第36章、資本主義以前(U) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481858125.html (50)第6篇超過利潤の地代への転化 第37章、緒論(1) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481838896.html (51)第37章、緒論(2) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481836690.html (52)第38章、差額地代 総論 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481834669.html (53)第39章、差額地代Tの1 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481826398.html (54)第39章、差額地代Tの2 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481824174.html (55)第40章〜第44章、差額地代 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480185970.html (56)第45章、絶対地代@ https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480182293.html (57)第45章、絶対地代A https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480179553.html (58)「参考」宮川彰著『資本論』第2・3巻を読む(下)第45章絶対地代から https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480177722.html (59)第46章、建築地代、鉱山地代、土地価格 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480173403.html (60)第47章、資本主義的地代の生成 第一節 緒論 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479520102.html (61)第47章、資本主義的地代の生成 第二節 労働地代 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479518309.html (62)第3節 生産物地代 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479516012.html (63)参考:「日本の場合」:労働地代と生産物地代が併存した。 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479514669.html (64)第4節 貨幣地代 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479512521.html (65)第5節 分益農制と農民的分割地所有 https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479510967.html (66)第7篇 収入とその源泉 第48章 三位一体的定式 (断片、T、U、V) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478954217.html (67)第48章 三位一体的定式(1) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478941040.html (68)第48章 三位一体的定式 (2) (断片、T、U) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478939785.html (69)第48章 三位一体的定式(3) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478937973.html (70)第48章 三位一体的定式(4) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478935972.html (71)第48章 三位一体的定式(5) 断片V https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478930092.html (72)第49章 生産過程の分析のために@ (マルクスの経済表貼付) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478927316.html (73)第49章 生産過程の分析のためにA https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478925807.html (74)第50章 競争の外観@ https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478924630.html (75)第50章 競争の外観A https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478923411.html (76)第7篇 収入とその源泉 第51章 分配関係と生産関係 第52章 諸階級(マルクスの経済表貼付) (資本論第3巻・了) https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478921230.html |
![]() ![]() |
![]() |
表T 物象化の理論としての『資本論』の論理構成 (見田宗介著『超高層のバベル』 P99) sihonk11 TOP (注) G=貨幣/W=商品/G'=剰余価値を含む貨幣/c=不変資本/v=可変資本/m=剰余価値 |
![]() |
表U 現代社会の存立構造(見田宗介著『超高層のバベル』 P102) sihonk12 TOP (注) ROS=(関係−客体−主体)p300) /R=relation・関係・関連 /O=object・客体・客観・物・対象・目的 /S=subject・主体・主観・主題・主語・科目・国民 |
![]() |
ホーム Link集
9条を抵抗の拠点に
尾西児童図書館の存続を求める活動資料(れんげニュース)
杉原千畝広場
資本論
私のmarkism(政治経済評論)
古典学習会(空想から科学へ)
古典学習会(二)(賃金・価格および利潤)
ドイツイデオロギー