 
★杉原千畝広場(センポ・スギハラ・メモリアル案内図(右):愛知県WEB参照)及び杉原千畝発行のビザ(左)Top
★八百津町観光協会:人道の丘公園/杉原千畝記念館 Top
★センポ・スギハラ・メモリアル(2018(H30).10建設)
(wikipedia)杉原千畝から一部を引用・・・
「顕彰」
杉原千畝(Sempo)の顕彰碑(イスラエルのホロコースト追悼記念館「ヤド・ヴァシェム」前庭で)
杉原千畝の母校の早稲田大学キャンパスに建立されている顕彰碑
2011年(平成23年)10月24日、早稲田大学出身の超党派の国会議員を中心に「杉原千畝顕彰会」が発足。
平山泰朗・衆議院議員の提唱により、杉原千畝を顕彰する顕彰碑(書・渡部大語)が母校内(早稲田キャンパス14号館脇)
に建立され、その碑文には、「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」が選ばれた。
12月24日、「第二次世界大戦中、リトアニア領事として同国からアメリカへ脱出する多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝
への恩を忘れないとの思いから」、アメリカのリトアニア人居住地区から、東日本大震災で神奈川県秦野市内に避難して
いる子供たちに対し、クリスマスプレゼントとして、ノートとクレヨンが寄付された。
2012年(平成24年)2月20日、来日したリトアニアのクビリウス首相が野田佳彦首相に対して、「日本は地理的には遠いが
親近感を抱いている。故杉原氏がユダヤ人を助けたことはリトアニアの日本理解に大きな影響を与えている」と述べた。
3月22日、米国フロリダ州ボカラントン市で、千畝の功績を記念する式典が挙行され、ニューヨーク総領事館から川村泰久
首席領事をはじめ約100人が出席した。4月26日、カナダ航空宇宙博物館において在カナダ日本大使館及びリトアニア大使館
ブナイ・ブリス・カナダとの共催で映画『命のビザ』が上映された。
10月16日、千畝の母校である愛知県立瑞陵高校(旧制愛知五中)に、在日イスラエル大使館から感謝のためのオリーブの木
が贈られ、植樹式が行われた。
2013年、5月10日、カナダ在住のジャーナリスト・高橋文が、日本経由でカナダに渡ったユダヤ人7家族15人の証言を集めた
記録映像『スギハラ・チウネのメッセージ』を八百津町の赤塚新吾町長に贈った。
9月10日、千畝のひ孫の杉原織葉(おりは)が、ミュージカル『SEMPO』に出演(難民の少女ニーナ役)。
2015年7月28日、日本ハリストス正教会の教会ニコライ堂の司祭と遺族らにより、鎌倉霊園にある杉原の墓前でリティヤが、
同霊園内の祭場でパニヒダが献じられた。正教会式の追悼礼拝が杉原のために行われたのはこれが初めてである。
杉原は晩年、孫娘に「できたら司祭を呼んでほしい」と話し、葬儀も正教会の形式を希望していたものの、様々な事情で
それは叶えられなかった。遺族が司祭と伝記DVDの完成試写会で出会ったことがきっかけとなり、実現したものである。
9月4日、杉原が現地を離れてから75年を迎えるにあたり、杉原の業績を称える記念行事がリトアニアのカウナスで行われた。
2016年6月8日、杉原の没後30年を期にイスラエルのネタニヤ市に当人の名を冠した「チウネ・スギハラ通り」が新たに名付け
られた。同名の通りはリトアニアの首都ヴィリニュスにも杉原の功績に因み存在しており、ネタニヤ市は杉原から発給された
ビザで欧州を脱出したユダヤ人達が戦後に数多く移住した地域だという。除幕式には四男の伸生が招待され参加した。
2016年(平成28年)6月30日、杉原終焉の地であり墓所のある鎌倉市議会で、総務常任委員会発議の「人道的行為を尽くされ
た杉原千畝さんを顕彰することに関する決議」が全会一致で可決された。
2016年(平成28年)7月13日、四男伸生がエシン夫人と鎌倉市役所を訪れ、松尾崇鎌倉市長、中沢克之鎌倉市議会議長と面会。
その後鎌倉市議会議場で、中沢克之議長から「人道的行為を尽くされた杉原千畝さんを顕彰する事に関する決議」を受け
取った。「大変光栄です。父も喜んでいます」と議場で感謝を述べている。
2017年(平成29年)9月8日、ロシア極東連邦管区にあるユダヤ自治州の州都ビロビジャンのビロビジャンI駅で、杉原千畝が
助けたユダヤ人の多くがここへ下車するか経由したことを記念して、記念プレートを設置する式典が開かれた。
プレートはロシア語、日本語、英語、イディッシュ語の四つの言語で書かれている。
瑞陵高校の校庭内に設置された顕彰施設「杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル」の完成記念式典
(2018年10月12日)
瑞陵高校に設置された愛知県による顕彰施設「杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル」(2018年10月12日)
2018年(平成30年)10月12日、杉原が通った名古屋の当時の愛知五中、現在の愛知県立瑞陵高校に、顕彰施設
「杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル」が設置され、完成記念式典およびレセプションが行われる。
大村秀章愛知県知事、河村たかし名古屋市長を始め、ヤッファ・ベンアリ駐日イスラエル大使、駐日ポーランド大使館関係者
鈴木宗男元国務大臣、杉原の四男伸生、杉原の孫千弘を主賓として迎えて式典は行われた。
ベンアリ・イスラエル大使は、式典の拶の中で自身の母親がホロコースト(大虐殺)からの生還者だと明かし「ユダヤ人の
悲劇は二度と繰り返してはいけない。杉原はユダヤ人社会、日本人だけでなく世界のヒーローです」と述べた。
美濃市の教泉寺に設置された杉原千畝生誕地案内板の除幕式典(2018年10月13日)
2018年(平成30年)10月13日、岐阜県美濃市において、杉原が生まれた1900年に父の好水が勤めていた上有知税務署(当時)
に隣接し、一家が暮らしていた刈間(千畝の自筆の手記に記載)があったとされる仏教寺の教泉寺
(戸籍には出生場所として住所が記載)に、千畝の生誕地であることを示す案内板が設置され、除幕式典が執り行われた。
2021年(令和3年)3月26日、杉原が通った名古屋の当時の愛知五中の遺構が残る、現在の名古屋市立瑞穂ヶ丘中学に杉原の
少年像が完成し、除幕式が行われる。
Chiune "Sempo" Sugihara in Los Angeles ロサンゼルス在住の生存ユダヤ人有志により、2002年リトル東京に建てられた
パスポートを手渡す座像
2002年、カリフォルニア州ロサンゼルス地区在住のユダヤ人有志が、ロサンゼルス市の日本人街リトルトーキョーに等身大の
銅像を建てた。像は、写真の通り、座って通過査証(transit visa)を書き込んだパスポートをユダヤ人に返しているポーズ。
ユダヤ人を含め、ここを訪れる人は隣に一緒に座ることもできるし、差し出すパスポートを受け取るようにして一緒に写真に
納まることもできる。像の説明の中には、タルムードからの「一人の命を救う者は、世界を救う」という言葉もある。
なお、彫刻家はRamon G. Velasco。
「語録」
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」。
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることは
できなかった」。
"Vaya con Dios!" -- 千畝の激励としてソリー・ガノールが記憶している言葉。
「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわって
いかなければなりません・・・。では、お元気で、幸運をいのります」
-- ビザ発給の際にある難民にかけた千畝の励ましの言葉。
「全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、
ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか? それがはたして国益に叶うことだというのか?」
「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」
「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。
「難民たちには、男性だけでなく、女性や老人、子供までいた。みな明らかに疲労困憊している様子だった」。
「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ。」
-- モシェ・ズプニックが聞いた言葉。
『杉原千畝 スギハラチウネ』は、2015年制作の日本映画。第二次世界大戦中、ナチスによる迫害から逃れるユダヤ人
のために独断で日本通過のビザを発行して、6,000人あまりのユダヤ人を救った外交官・杉原千畝の生涯を描いた作品。
ポーランドで9月13日から11月上旬まで約2か月にわたりロケが行なわれた。本作では杉原千畝が外交官としてだけで
なく、堪能な語学力を使い、赴任した各国で類いまれな情報収集能力を発揮し、貴重な情報を集めて日本に送り続けた
「インテリジェンス・オフィサー(諜報外交官)」であった一面も合わせて描いている。(wikipediaフリー百科)
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「杉原千畝」(1900年1月1日〜1986年7月31日)の解説(コトバンク)
第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に対して、日本政府の命令に背いて日本通過ビザ
を発給し、約6千人もの命を救ったとされる外交官。自らの工場で働くユダヤ人を救ったことで知られるドイツ人実業家、
オスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれている。
1900年1月1日、岐阜県八百津町生まれ。早稲田大学高等師範部英語科を中退、外務省の官費留学生として満州(現・中国
東北部)のハルビンでロシア語を学んだ後、同省に採用される。満州、フィンランドなどでの勤務を経て、39年にリトア
ニアの日本領事館に領事代理として赴任した。「命のビザ」を発給したのは、40年夏。ポーランドを追われてきた大勢の
ユダヤ人避難民が、ソ連・日本を経由して第三国に移住しようと日本通過ビザを求めてきた。
杉原は、要件を満たさないユダヤ人避難民にも人道上ビザの発給を認めるよう外務省に願い出たが認められず、悩んだ末
に独断で発給を決断。領事館は既に閉鎖が決まっていたが、出国直前までの約1カ月間、発給を続けたという。
その後、チェコ、ルーマニアなどで勤務し、46年に帰国。翌年、外務省を退職した。訓令違反のビザ発給を理由に退職に
追い込まれたとの思いから、退職後は外務省関係者との交流を断ち、86年7月31日に死去した。
「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのは、69年にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてからだという。
85年1月にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰され、91年にはリトアニアの首都にある通りの
一つに「スギハラ通り」と名前が付けられた。故郷・八百津町には92年、「人道の丘公園」がオープンし、生誕100年と
なる2000年には記念館も設立されている。外務省も1990年代に入ってから当時の経緯の検証など「関係修復」に向けて
動き、2000年に河野洋平外務大臣が遺族に謝罪した。
(原田英美 ライター / 2010年) Top
『杉原千畝・Youtube録画集』 Top(2024.12.12改訂)
※映画「杉原千畝 スギハラチウネ予告(発売前)・2016/03/07(youtube)
※ビクター・ギリンスキー博士インタビュー・2022/02/20(youtube)
※イスラエル人が福井・人道の港 敦賀ムゼウムを訪問しました・2020/10/12(youtube)
※杉原記念館からのビデオメッセージ・2016/11/10(youtube)
※命のビザ”を繋いだもうひとつの物語・2017/08/04(youtube)
※唐沢寿明 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」製作報告会見・2015/05/27(youtube)
※カリフォルニア州上院議会 7月29日を「杉原ビザの日」に・2021/07/30(youtube)
※ユダヤ人の記憶に生きる日本人 杉原千畝・2014/04/26(youtube)
※ポーランドへの架け橋・2019/10/23(youtube)
※「ブルーマン〜 杉原ビザにより命を授けられたユダヤ人の物語」・2014/02/18(youtube)
※杉原千畝 四男 伸生 父の思い出を語る・2015/11/27(youtube)
※【八百津町】杉原千畝記念館・2016/04/04(youtube)
※「命のビザ」外交官・杉原千畝の人道精神に基づき ウクライナ支援の募金活動・2022/03/17(youtube)
※「命のビザ」80年で特別展 リトアニア 杉原千畝の年・2020/02/21(youtube)
※杉原千畝(歴史解説1)youtube (2024.12.12改訂)
※杉原千畝(ゆっくり解説「命のビザ」)youtube(2024.12.12改訂)
※杉原千畝(1900.1.1生まれ解説)(2024.12.12改訂)(youtube)
※杉原千畝(歴史解説2)(2024.12.12改訂)(youtube)
※ユダヤ人の記憶に生きる日本人 杉原千畝(2024.12.12改訂)(youtube)
※反面教師:映像の20世紀「ヒトラー」(2024.12.12改訂)(youtube)
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「ひまわり」(wikipedia参照) Top
映画★『ひまわり』は、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが主演した、1970年公開のイタリア・フランス
・ソビエト連邦・アメリカ合衆国の合作映画。日本での公開は1970年9月12日。
監督はネオレアリズモの一翼を担ったヴィットリオ・デ・シーカ。
冷戦期にソビエト連邦で初めて撮影された西側諸国の映画である。
監督はネオレアリズモ(イタリアンリアリズム)の一翼を担ったヴィットリオ・デ・シーカ。冷戦期にソビエト連邦で初めて
撮影された西側諸国の映画である。音楽をヘンリー・マンシーニが担当し、数多くの映画音楽を手がけたマンシーニの作品中
でも特に評価は高く、主題曲は世界中でヒットした。
戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いた作品で、エンディングでの地平線にまで及ぶ画面一面のひま
わり畑が評判となった。数あるローレン主演の映画の中で最も日本で愛されている作品である。
ロケ地となったひまわり畑はソビエト連邦時代のウクライナの首都キエフから南へ500キロメートルほど行ったヘルソン州に
あるとされているが、NHKの現地取材ではポルタヴァ州のチェルニチー・ヤール村(Чернечий Яр)で行われたと
特定されている。日本では2020年に「ひまわり 50周年HDレストア版」として上映。
2022年には半世紀前の舞台・ロケ地であるロシアのウクライナ侵攻を受け上映が行われた。Top
映画『ひまわり(公開50周年版)』(あらすじ) Top
ストーリー:
第二次世界大戦終結後のイタリア。出征したきり行方不明の夫の消息を求め、関係省庁へ日参する女性の姿があった。
戦時中、洋裁で生計を立てる陽気なナポリ娘ジョバンナとアフリカ戦線行きを控えた兵士アントニオは海岸で出会い、すぐに
恋に落ちる。12日間の結婚休暇を目当てに結婚式を挙げた2人は、幸せな新婚の日々を過ごすが、休暇の12日間は瞬く間に過
ぎてしまう。精神疾患による除隊を目論んだアントニオは首尾よく精神病院に入院するが、あえなく詐病が露見、懲罰のため
ソ連戦線へと送られることに。見送るジョバンナに「毛皮がお土産だ」と笑顔を見せるアントニオら大勢の兵士を乗せた汽車
は、ミラノ中央駅を出発する。終戦後、ジョバンナは年老いたアントニオの母親を励ましながら、夫の帰りを何年も待ち続け、
ようやく同じ部隊にいたという男を見つける。男の話によると、アントニオは敗走中、極寒の雪原で倒れたという。
ジョバンナは愛するアントニオを探しに、ヨシフ・スターリン亡き後のソ連へ行くことを決意する。
当時のソ連は社会主義国家であり、ジョバンナが降り立ったモスクワは別世界だった。かつてイタリア軍が戦闘していたと
いう南部ウクライナの街でアントニオの写真を見せて回るジョバンナだったが、一向に消息が掴めない。ジョバンナの前に、
地平線の彼方まで続くひまわり畑が広がる。多くの兵士たちがこのひまわりの下に眠っているという。無数の墓標が並ぶ丘
まで案内した役人の男性はジョバンナに「諦めたほうが良いのでは」と言うが、彼女はきっぱりと「夫はここにいない」と
言い拒絶する。かすかな情報を頼りにモスクワに戻ったジョバンナは、とある駅の雑踏の中で、戦後も祖国へは戻らずに
ロシア人として生活しているイタリア人男性と出会う。しかし彼は多くを語らず、また、アントニオのことも知らないと言う。
ジョバンナはもしやアントニオもと、微かな不安を抱く。
言葉も通じない異国で、なおも諦めずにアントニオを探し続けるジョバンナは、郊外の村で写真を見せた3人の中高年の女性
たちから、身振りを交えてついて来るように言われ、一軒の慎ましい家に案内される。そこには、若妻風のロシア人女性
マーシャと幼い女の子カチューシャが暮らしていた。言葉は通じずとも互いに事情を察するジョバンナとマーシャ。
マーシャはジョバンナを家に招き入れる。室内には枕が2つ置かれた夫婦のベッドがあった。マーシャは片言のイタリア語で、
アントニオと出会った過去を話し始める。雪原で凍死しかけていた彼をマーシャが救ったのだが、その時アントニオは、自分の
名さえ思い出せないほど記憶を無くしていたという。
やがて汽笛が聴こえ、マーシャはジョバンナを駅に連れて行く。汽車から次々と降り立つ労働者たちの中に、アントニオの姿
があった。駆け寄ったマーシャをアントニオは抱き寄せようとするが、マーシャは彼をとどめてジョバンナの方を指さす。
驚くアントニオ、やつれ果てたジョバンナ。かつての夫と妻は距離をおいたまま、身じろぎもせず互いを見つめ合う。
ジョバンナの表情が悲しみで歪み、アントニオが何か言おうと一歩踏み出した途端、ジョバンナは背を向け、既に動き出して
いた汽車に乗せてくれと叫び、飛び乗る。そして、座席に倒れ込むように座ると、見知らぬロシアの人々が奇異の目で見る中、
声を上げてむせび泣く。ミラノに帰ったジョバンナは、壁に飾ってあったアントニオの写真を外し、泣きながら踏みつけ、
そして男たちと遊ぶ荒れた生活を始める。そんな中で訪ねてきたアントニオの母親は、ジョバンナの不実を咎めるが、
ジョバンナはソ連で見たアントニオの様子を母親にぶちまける。死んでいたほうがましだった、と。
その後、アントニオとマーシャ夫婦は新築の高層アパートに引っ越すが、新しい生活のスタートであるはずのその日の晩も、
アントニオは物思いに沈んでほとんど口を利かない。そんなアントニオを見てマーシャは「もう私を愛してないの?」と涙を
浮かべる。マーシャの許しを得たアントニオは、約束していた毛皮をモスクワで買い求め、ミラノへ向かう。嵐で停電した
アパートの暗闇の中、再会した2人だったが、感情がすれ違う。アントニオはもう一度2人でやり直そうと訴えるが、その時、
隣の部屋から赤ん坊の泣き声が。赤ん坊を見て名前を訊く彼に、ジョバンナは赤ん坊の名はアントニオだと言う。ジョバンナ
もまた別の人生を歩んでいることを知ったアントニオは毛皮を渡し、ソ連に帰ることを決心する。
翌日のミラノ中央駅。モスクワ行きの汽車に乗るアントニオをジョバンナが見送りに来る。二度と会うことはない2人。
動き始めた汽車の窓辺に立ったままジョバンナを見詰めるアントニオ。遠ざかり消えてゆく彼の姿に、ジョバンナは抑えきれず
涙を流し、ホームにひとり立ち尽くす。彼を乗せた汽車が去っていったこのホームは、以前戦場へ行く若き夫を見送った、
その同じホームだった。
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映画「ひまわり」あらすじと感想(映画ウオッチ) 「ひまわり」50周年HDレストア版広告(2020年)
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