史跡巡りシリーズ・西尾張編PartR3    (
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一宮友歩会・第94回例会 江南市ウオーク (11Km) 令和5(2023)年2月4日(土)天気:晴れ、参加者44名。

(1)小折城 (2)宮後城 明治22・24年測図 全員集合 裁断橋行
解説
小折城(生駒屋敷)と宮後城  2023.2.4友歩会資料 MKさん提供/解説  r52408
(1)小折城(生駒屋敷)と吉乃・・・江南市小折   Top
(2)宮後城(図の中央にある▲印が宮後城跡碑/明治17年の地籍図)・・・江南市宮後 r52409   Top
明治22・24年測図 5万分の1 地形図 r52410    (Yさん解説)
(○印が五条川の流れ、下向きの▽が入鹿切れ洪水の主流:五条川の東側に沿っている。
□が昭和用水の経路で大きい○の北側に位置)
※五条川の流れが比較的高いところ(入鹿切れ洪水の主流より西側)を流れていることが分かる。     
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コースマップ

裁断橋行の解説r52029.jpg        Top

2023.2.4昼食後裁断橋にてr524zt8537.jpg     Top
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解説    Top
宮後城祉      Top
宮後城(みやうしろじょう)は、尾張国丹羽郡宮後村、現在の愛知県江南市にあった日本の城。
「蜂須賀屋敷」、「小六屋敷」などとも呼ばれる。
歴史
築城年は不明であるが、応永年間(1394年 - 1428年)に安井氏が居城していたとされる。
戦国時代には、安井重幸の息子・安井重継が居城していた。重継の姉・安井御前は、夫・蜂須賀正利と共に
居城していた蜂須賀城が織田信秀との対立により土地を奪われてしまったため、長男の蜂須賀正勝と共に
宮後城へ移り住んだ。正勝の長男・蜂須賀家政(後の阿波徳島藩祖)は、この地で生まれたとされる。
その後、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉の砦として修築されたが、和睦後に破却さ
れた。
五丁堀砦跡(愛知の城廻web参照)     Top
五丁堀砦は織田・徳川連合軍の砦で、宮後城は羽柴方の砦です。
【歴史】1584年「小牧、長久手の戦い」の際、織田信雄、徳川家康連合軍の砦として築かれ、前野喜衛門
以下300の兵が布陣したと云う。現在は耕地に変わり、石碑が立つ。
前野家屋敷  Top
豊臣秀吉に仕え、蜂須賀小六とともに活躍した前野将右衛門をはじめとする前野氏一族の屋敷跡で、現在も
その家系は続いています。一族の武功を語る「武功夜話」が発見されました。   コースマップ
堀尾跡公園    Top
愛知県は武将のふるさとと言われており、国宝にも指定されている松江城(島根県)を築いたのも愛知県
出身の堀尾吉晴公。堀尾跡公園は、堀尾一族の屋敷があったところで、現在は往時を偲ぶ歴史公園として、
整備されており、夏の水遊びや秋の紅葉など四季折々の表情を見せてくれます。一番の見所は、公園の前を
流れる五条川の桜並木。吉晴の子と伝えられ、豊臣秀吉の小田原征伐の陣中で死去した金助に因む
「裁断橋物語」にあやかって、五条川には、裁断橋と擬宝珠が復元されています。
生駒屋敷    Top
生駒氏は藤原忠仁の子孫で、大和国を本貫としていたが、文明年間(1469年−1487年)に生駒家広が応仁の乱
の戦禍を逃れ、寂れていた林氏の旧領尾張国小折(のち布袋町)に移住した。後の岩倉街道などが通る交通の
要所であったことから生駒氏は馬借として財を成し、代々織田氏と関わり勢力を拡大するようになった。
最大時には飛騨から東三河にまで商圏を拡大していた。
生駒氏が権力を持ち表舞台に出始めたのは、生駒家宗の娘、吉乃が織田信長の側室となり、次男・織田信雄を
産んだ頃である。この頃に小折城が築かれた。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際には戦いの最前線となり城は大幅に改修された。織田信雄が追放
された後、家長は隠居していたが、息子の生駒利豊は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後は徳川家康に懇願され
松平忠吉に仕えるため尾張に残った。 
その後、生駒利勝は尾張藩主徳川義直に仕え、子徳川綱誠の守役となる。子孫が家老となり4,000石を領した。
一国一城令により小折城は廃城となり生駒家の中心が名古屋城下に移ったが、在所持ちを許され周辺領地と遺構
は縮小されるもそのままに生駒氏下屋敷として隠居所の機能を果たしながら存在した。
給地換えの際にも在所の小折村を失うことなく明治時代を迎えた。
明治以降、武家解体の後に下屋敷は処分された。現在は市指定文化財となった旧下屋敷中門と碑を目にすること
ができる。


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