友歩会第66回・西尾張編Part15(下見)&例会レポート (詳細・拡大)
下見・H28(2016).12.17(土)&例会・H29(2017).2.4(土)
天気:下見:(6名)晴れ歩数:26,815歩、例会:晴れ(53名)歩数:31,586歩
コース:名鉄・新木曽川駅・木曽川資料館(9:15)→割田城跡→西上免遺跡→野府城祉→小原の千体地蔵→ →尾西運動場→お歯守さん→尾西公園→三条神社→御裳神社→天神の渡し跡→孝子佐吾平の碑→ →市川房枝生家跡→萩原宿本陣跡→馬頭観音→正瑞寺→萩原商店街→名鉄萩原駅『関連ホームページ』 ★(コースマップ)★友歩会(HP)★一宮市観光協会★一宮市★一宮市博物館 ★2011年3月5日「健康づくり(萩原町史跡巡り)ウオーキング」 ★2009年1月11日 「萩原町ウオーキング」 ★全員集合
![]() 名鉄新木曽川駅006 |
![]() 木曽川資料館と商工会館(右) n66007 |
![]() 出発式(商工会館駐車場)n6602 |
![]() 割田城跡 n66009 |
![]() 木曽川庁舎と文化会館(右)n66011 |
![]() 西上免遺跡n66015 |
![]() 開明・水道ガス布設記念碑 016 水道:昭和31年11月、ガス:昭和36年10月 |
![]() 開明・電灯布設記念碑n66017 大正8年10月 |
![]() 開明小学校内の野府城跡 021 |
![]() 道祖神(開明小学校内)025 |
![]() 開明小原・千体地蔵028 |
![]() 千体地蔵029 ★(コースマップ) |
![]() ★尾西運動場(中央は★開明公民館)032 |
![]() ★お歯守さん地蔵034 |
![]() ★尾西公園(昼食予定)038 |
![]() 全員集合(尾西公園) |
![]() サイカチ(マメ科絶滅危惧種)の古木n66040 |
![]() ★奉安殿(三条神社内)n662002 |
![]() ★三条神社(右は三条小学校)043 |
![]() 御裳神社048 |
![]() 法信寺n66049 ★(コースマップ) |
![]() ソロバンが描かれている梵鐘(法信寺の工芸梵鐘)056 |
![]() 法信寺本堂 n66058 |
![]() 天神の渡し跡(旧尾西市・日光川の西側)061 |
![]() 天神の渡し跡(一宮市萩原町・日光川の東側) |
![]() 孝子・佐吾平の碑063 |
![]() |
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![]() 市川房枝生家跡067 ★(コースマップ) |
![]() 美濃路・萩原宿本陣跡の碑068 |
![]() 萩原宿問屋場跡の碑069 |
![]() 馬頭観音(左)、屋根神様(中央)、地蔵菩薩(右)071 |
![]() 正瑞寺(萩原宿の高札場が近くにあった)072 |
![]() 正瑞寺本堂073 |
![]() ★正瑞寺の石鐘 (大東亜戦争末期、軍需品補充のため当寺の 梵鐘を供出した。この時戸田氏による石の鐘が寄贈されたが重 すぎて吊すことができなかった。昭和から平成に元号が変わる のを節目に後世に伝えるものです。平成元年8月15日) |
![]() 美濃路の萩原商店街075 ★(コースマップ) ![]() ★朝日新聞の石の鐘の記事(2016.8.16) |
![]() 美濃路の現在の萩原商店街n661919 |
![]() 美濃路の萩原商店街に残る格子戸のある民家n661926 |
![]() 萩原郵便局跡n661923 |
![]() 萩原商店街に残るレトロな民家n661916 |
![]() 美濃路沿いにあった舟木一夫生家跡001 |
![]() 舟木一夫に関係する資料を収めている郷土資料館002 |
![]() クールダウンを行う |
![]() 名鉄萩原駅004 |
★割田城跡 詳細不明。城主は開田二郎国用と伝えられる。 説明 割田城の位置はよくわからないが、「史跡散歩 愛知の城」によれば外割田第三児童遊園付近で、ここは字「城跡」である。 「愛知県中世城館跡調査報告I(尾張地区)」は北方の芳林禅寺の北側一帯の字「屋敷」を推定地としている。★topへ |
★西上免遺跡(にしじょうめん) 西上免遺跡 旧尾西市(一宮市)開明字西上免 愛知県埋蔵文化財センター(pdf参照)愛知県尾西市開明に所在する西上免遺跡では、3世紀に遡る前方後方墳が発見された。墳長約40m で、周囲を幅9 m ほどの周溝が前方後方形に掘削される。墳丘部はすでに大きく削平されていたが、くびれ部や前方部をとりまく南周溝 からは多量の土器が出土している。 ★topへ 西上免遺跡は東海北陸自動車道の建設に伴い、平成2年度より継続的に調査を行い、本年度の調査をもって同遺跡の東海 北陸自動車道建設予定地内の調査は終了した。 遺跡は標高6m前後に位置し、弥生時代中期・古墳時代および奈良時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡であり、発掘調査 によって奈良時代から鎌倉時代の溝・井戸・建物、古墳時代初頭の墳丘墓・水田、弥生時代の土坑などが見つかっている。 本年度調査区においては、古墳時代初頭の墳丘墓および前方後方墳があらたに発見できた。その内前方後方墳(SZ01)は 墳長約40m で、後方部は一辺約25m、前方部長15m、前方部幅13m を測り、その周囲には幅約9m の周溝が前方後方形にめ ぐり、前方部では溝SD25(幅約3m)が前方後方墳を横断するかたちで設定されている。さらに前方後方墳SZ01 の 西側には近接して溝SD19 が掘削121:4されており、SD19とSD25によって区画された内側に前方後方墳SZ01 が営まれた ものと推定できる。前方後方墳の周溝およびSD25からは多量の土器が出土し、その多くは廻間U式前半期を中心とする ものであり、したがって前方後方墳の造営が3世紀中葉を中心とした時期まで遡る可能性が考えられよう。 現地説明会1995.6.18 約1:600 (埋文セ 赤塚次郎)★topへ |
★野府城祉築城年代は定かではない。城主は織田信長の弟の織田九郎信治である。元亀元年(1570年)織田信治は森可成とともに近江国 宇佐山城に籠城し、朝倉・浅井軍と戦って討死した。 野府城は現在の開明小学校一帯に築かれていたという。南側の校門を入ってすぐ左側に石碑と案内板が建っている。 城主 織田信治 所在地 愛知県一宮市開明字城堀(開明小学校) ★topへ |
★小原の千体地蔵【所在地】開明字郷中 【交通】名鉄尾西線「奥町」駅より南へ徒歩10分 【由来】天明(1781〜1789)の飢饉の後、この地域で疫病が流行した折、村人の願により野府川近くに住んでいた瓦職人に 頼んでこの地に建立されたといわれる。 【ひとくちメモ】 県道萩原三条北方線 傳来寺南の狭い道を東へ入るとアパート横に小さな祠の建物がある。道路が狭く駐車スペースなし。★topへ |
★尾西運動場★開明公民館(一宮市Web参照) ★topへ |
★お歯守さん天明3年(1783)旅の途中の僧が病に苦しみ将監(しょうげん:現一宮市開明字教堂池)の村で亡くなりました。 僧は亡くなる前に、「私は歯痛でずいぶん苦しみました。私が死んだら、やわらかいものを供えて供養してくだされば、 首から上の病をきっと治してあげます」と言い残したといわれています。 将監の村人たちは僧侶の墓石を建て、墓前にやわらかい豆腐を供え、手厚く供養しました。 昔は歯科医院が今ほど多くなかったこともあり、歯痛が治ったといううわさを聞きつけて、遠方から来る人も多かった そうです。今も多くの人が信じています。 (開明字教堂池)★topへ |
★尾西公園 ★topへ ★(コースマップ) |
★サイカチ(wikipedia)サイカチはマメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属の落葉高木。別名、カワラフジノキ。漢字では?莢、梍と表記するが、 本来「?莢」はシナサイカチを指す。樹齢数百年というような巨木もあり、群馬県吾妻郡中之条町の「市城のサイカチ」 や、山梨県北杜市(旧長坂町)の「鳥久保のサイカチ」のように県の天然記念物に指定されている木もある。 「特徴」 幹はまっすぐに延び、樹高は15mほどになる。幹や枝にはするどい棘が多数ある。葉は互生する。1回または2回の偶数 羽状複葉で長さ20-30cm。長さ2cmほどの長楕円形の小葉を6-12対もつ。花は雌雄別で初夏、5-6月に咲く。 長さ10-20cmほどの総状花序。花弁は4枚、黄緑色で楕円形をしている。秋には長さ20-30cmで曲がりくねった灰色の豆果 をつけ、10月に熟す。鞘の中には数個の種子ができる。種子の大きさは1cmほど。 「分布と生育環境」 日本の固有種で本州、四国、九州の山野や川原に自生する。また、実などを利用するために栽培されることも多い。 「利用」 木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いる。 豆果は?莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で去痰薬、利尿薬として用いる。 またサポニンを多く含むため古くから洗剤として使われている。莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出る ので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物 の洗濯などに利用されていたようである(煮出して使う)。 棘は漢方ではp角刺といい、腫れ物やリウマチに効くとされる。 豆はおはじきなど子供の玩具としても利用される。 若芽、若葉を食用とすることもある。 ★topへ |
★三条神社 ★topへ一宮市三条字苅に所在する三條神社は、慶長6年(1601)に苅安賀新田村が豊受大神を勧請して創建された。 昭和42(1967)年に神明社と須賀社が合祀されたという。祭神は豊受大神と伊弉冉神である。 三條神社は、正面から一の鳥居、灯籠、二の鳥居、蕃塀、灯籠、狛犬、コンクリート製平入拝殿から本殿施設群 (祭文殿や本殿)に至る構成を持つ。★topへ★奉安殿(wikipedia) 戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物である。 御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される。 (小学校の奉安殿建築は1935年頃に活発化)また学校への宿直もこの御真影の保護を目的として始められた面もある。 |
★御裳神社(★あじさい祭り) ★topへ一宮市三条字宮西に所在する御裳神社は、寛徳2年(1045)に創建された古社で、『尾張国神名帳』に従三位上 御母天神と記された神社である。当地は御母板倉御厨の地であり、古来より盛んであった織物業・染色業の守護 神として崇敬を集め、社名を御裳神社と定められた。祭神は天照大神・日本武尊・迦具土神である 御裳神社は、正面から一の鳥居、灯籠、二の鳥居、灯籠群、蕃塀、狛犬から基壇上の平入拝殿や祭文殿や本殿 などに至る構成を持つ。 ★topへ |
★孝子佐吾平の碑 ★(コースマップ)天保年間(1830-43)明石藩松平斉宣の参勤交代の折、暴れ馬を取り押さえようと行列を 横切った佐吾平は無礼 討打ちにされてしまった。尾張藩は領内で起こったこの事件を重く見て抗議。 以後、明石藩が尾張藩領内を通行するときは葬式の装いをして 通行したといわれている |
★市川房枝(wikipedia参照) ★(コースマップ) ★topへ(市川 房枝)1893年(明治26年)5月15日 - 1981年(昭和56年)2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家 (元参議院議員)。愛知県中島郡明地村(現在の一宮市[注 1])生まれ。第二次世界大戦の前後に渡り、日本 の婦人参政権運動(婦人運動)を主導した。1981年(昭和56年)2月に尾西市(現在の一宮市)の名誉市民と なる。1981年(昭和56年)参議院永年在職議員表彰を受ける。★topへ |
★萩原宿 ★(コースマップ) ★topへ萩原宿は、美濃路の宿場である。現在の愛知県一宮市萩原町にある。日光川の東に位置する。 美濃路の宿場では最も小規模である。現在の一宮市萩原町は宿場としての建物は少なく、商店街になっている。 商店街は昭和30 - 40年代のレトロな感じがある。毎年5月には萩原宿チンドン祭りが行なわれる。★topへ 萩原宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋17軒、家数236軒、人口1002人で、美濃路の中では最も規模の小さい 宿場。東から下町、中町、上町となっており、宿の中央で曲尺手となっていた。正面に高札場があり傍らに 正瑞寺が建つ。 上町と下町の二箇所問屋場が置かれ、上問屋・下問屋と言われていた。 現在商店街となっている町並みは、昭和30〜40年代のレトロな雰囲気をかもし出す。 萩原郵便局跡を過ぎ 商店街を行くと、街道は右手に曲がる。その角左手に 正瑞寺の山門がみえる。 正瑞寺は、蓮如上人巡行の際に天台宗から浄土真宗に改宗した寺院。このあたりに高札場があったといわれる。 この角を曲がり、まっすぐ進むと左手に脇本陣、右手に上町問屋場、本陣が軒を連ねて いた。 問屋場跡と本陣跡には碑が立っている。 本陣跡の西にあった萩原城は、秀吉の姉婿長尾武蔵守吉房の居城であった。 吉房は豊臣秀次の父、秀次が謀反 の疑いで失脚すると、追放され萩原城は廃城となった。江戸時代になると尾張藩祖徳川義直の御茶屋御殿が建て られていたという。★topへ★美濃路・萩原宿詳細参照 萩原宿の概略図や中島郡萩原宿絵図(1860年頃)、萩原宿概要(1650年頃)まで詳細な図面などがあります。 ★萩原宿と美濃路(地図と解説) ★美濃路萩原宿・映像解説 ★萩原宿解説(宝光寺にある「脇本陣森半兵衛辞世の句碑」の解説もあります。) 宝光寺の門を入り右手に脇本陣と村庄屋を勤めた辞世の句碑「我をとう人にたとえよ松の風」文政2年(1819)没、 脇本陣跡は本陣の向い側(美濃路西南あたり) ★東海道・中山道・美濃路、下記マップ参照 (萩原宿は美濃路の中央にあたる) ★topへ ![]() |
★馬頭観音 ★topへ「馬頭観音菩薩(左)」宝暦13年(1763)萩原の馬持ち12名が発起人で建立、平成20年(2008)5月再建、 (右)地蔵菩薩、(正面)山車倉庫(屋根神様)★topへ |
★正瑞寺 ★topへ高札場のあったところにあるのが天満山正瑞寺です。元は天台宗のお寺でしたが蓮如上人巡行の際に浄土真宗 に改宗したお寺です。このお寺の当主は小笠原氏で、応仁の乱の時、美濃からこの地に逃れてきた小笠原兄弟 にかかわりがあるとされ、この地の旧家には小笠原姓が多いそうです。 境内に「石の鐘」が鎮座していました。太平洋戦争末期、このお寺の鐘が国家に供出されました。その折り、 檀家から平和到来・戦没者慰霊を願ってこの石造りの鐘が奉納されたのだそうですが、重すぎて鐘楼に吊るす ことなく終戦を迎えました。平成の世になった時に修飾され、平和を願ってここに置かれたものだそうです。★topへ |
★正瑞寺の石の鐘花崗岩製の代替梵鐘 刻銘 昭和十八年三月 南無阿弥陀仏 碑文 大東亜戦争末期軍需品補給のため当寺の梵鐘を供出せり その時鐘楼保全と平和到来戦没者慰霊を 願って戸田御一族より石の鐘の寄贈ありしが重すぎて釣すことなく 不幸な終戦を迎う この度昭和が平成となる節目にあたり記念のため修飾して後の世につたえるものなり 大惠書 平成元年八月十五日★(金属供出・代替梵鐘・愛知県)★石の鐘のメッセージ(長野県)★正瑞寺(WEB解説) ★朝日新聞の石の鐘の記事(2016.8.16) ★topへ |
★萩原宿(上問屋場跡)萩原宿上問屋場跡。この宿場には上問屋と下問屋の2か所に問屋場が置かれ、2日交替で業務を 行っていたそうです。上問屋は鵜飼家、下問屋は木全家が務めていました。 萩原宿は、天保14年(1843)本陣・脇本陣各1軒、問屋場2ヶ所、旅籠17軒の宿場でした。★topへ |
★巡見街道(萩原宿で美濃路と交叉している) 幕府は1615年以来、将軍がかわるごとに巡見使を全国各地に派遣して村々の様子を見回った。 巡見使が通る街道は定められており、一般に巡見街道と呼ぶ。尾張の巡見街道は犬山・草井から 瀬部村を通って一宮に入り、苅安賀村・萩原村を経て津島に向かった。 ★巡見街道と地図 ★topへ |
★「天神の渡し跡」(1)(一宮市萩原町内)(日光川東側) 安土桃山時代頃、美濃路の渡しは、対岸は旧尾西市西萩原で、天正14年(1586)以降下段の板橋 となる。織田信長と斎藤道三が冨田の聖徳寺で会見した帰り、道三がこの渡しまで見送ったとも伝えら れる。史跡平成15年(2003)建立、題字、一宮市長 谷一夫書 ★「天神の渡し跡」(2) 【所在地】(日光川西側)西萩原字葭山(天神神社境内) 【交通】名鉄バス西中野行き「西萩原」停東へ徒歩7分 【由来】野府川、五城川を合流した日光川は古川といわれ、木曽川の主流の一つだった。 慶長年間(1596〜1615)までここにあった渡場。後に川幅が狭められて廃止された。 【ひとくちメモ】 中華そば屋の北東。 天神神社南入口付近 石碑(昭和52年建立)のみ。 ★topへ |
★旧美濃路沿いに開けた萩原(はぎわら)商店街(Web紹介)★(コースマップ) |
全員集合(尾西公園) ★topへ![]() |
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