友歩会親睦松坂ウオーキング 詳細・拡大
H29.3.18(土) 天気:晴れ 今日の歩数:17,503歩
6:55自宅溌−尾張中島バス停−一宮駅JR東海7:37溌−近鉄名古屋8:01−9:26松坂着
コース:御厨神社…松坂商人の館…三井家発祥地…松阪もめん手織りセンター旧長谷川邸…松坂城址跡…歴史民俗資料館
…本居宣長宅跡…城郭散策…御城番屋敷…原田二郎旧宅(樹敬寺)…来迎寺…龍泉寺…松坂駅(13:35)
★松阪市街地ウオーキングマップ(友歩会2017.3.18)★松阪城の(裏門)前で
![]() 近鉄・JR松坂駅002 |
![]() 御厨神社007 |
![]() 松阪商人の館008 |
![]() 小津清左衛門邸 012 |
![]() 三井家発祥の地021 |
![]() 産業振興センター前のライオン像025 |
![]() 松阪もめん手織りセンター内027 |
![]() 旧長谷川邸030 ★top |
![]() 旧長谷川邸032 |
![]() 松阪城跡の碑040 |
![]() 歴史民俗資料館(旧松阪市立図書館)043 |
![]() 城跡模型051 ★top |
![]() 城郭から歴史民俗資料館を見る067 |
![]() 城郭の土塁を歩く070 |
![]() 松阪城・梅林071 |
![]() 松阪城・梅林072 ★top |
![]() 天守閣跡075 |
![]() 松阪城から下る079 |
![]() 石積み080 |
![]() 本居宣長旧宅跡082 |
![]() 本居宣長旧宅086 |
![]() 城郭と石垣092 ★top |
![]() 本居神社094 |
![]() 公開中の御城番屋敷099 |
![]() 御城番屋敷(西側から見る)101 |
![]() 血判のある契約状102 |
![]() 御城番屋敷(正面は松阪城)108 |
![]() 松阪城の石垣(裏門)116 |
![]() 石垣のもとで昼食115 |
![]() 集合写真117 ★top |
![]() 原田二郎旧宅119 |
![]() 原田邸内の松阪城堀跡120 |
![]() 原田二郎翁墓所(樹敬寺)127 |
![]() 本居宣長の墓(樹敬寺)128 |
![]() 来迎寺へ133 |
![]() 来迎寺本堂135 ★top |
![]() 広い来迎寺境内138 |
![]() 愛宕山龍泉寺139 |
![]() 龍泉寺本堂142 |
![]() JR松阪駅へ戻る145 ★top |
★松阪城の(裏門)前で ★top![]() |
松阪市街地ウオーキングマップ(友歩会2017.3.18) ★top![]() |
★松坂城址(wikipedia) ★topへ 「概要」 城の縄張りは梯郭式平山城である。松阪市の中心地の北部に位置する。阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。 江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内17万9千石を統括するために城代が 置かれた。 現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館など がある。松阪は梶井基次郎の短編小説『城のある町にて』の舞台であるため、二の丸跡に文学碑が建てられている。 この文学碑は1974年(昭和49年)8月に建立された。 「沿革」 1584年(天正12年) - 近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城。 1590年(天正18年) - 氏郷は小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。 代わって服部一忠が入城した。 1600年(慶長5年) - 関ヶ原の戦いの軍功により徳川家康より2万石を加増された。 1871年(明治4年) - 廃藩置県により廃城となった。 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(48番)に選定された。 2011年(平成23年)2月7日 - 約4.7haの城跡が「近世の政治・軍事を知る上で貴重」であるとして、松坂城跡として国 の史跡に指定された。 「石垣」 建築史家の内藤昌は「素晴らしい石垣。安土城同様の形式だがそれを上回る強固なもので美観という点でも優れている。 (安土城の築城にも加わった)蒲生氏郷の美意識の高さを感じられる」と述べ、近世の先駆けとなる名城に挙げている。 ★topへ |
★本居宣長宅跡(wikipedia) ★topへ本居宣長旧宅は、三重県松阪市殿町にある史跡である。江戸時代の国学者本居宣長が12歳から72歳で亡くなるまでこの家 で暮らし、2階の書斎を鈴屋(すずのや)と名づけた。1909年(明治42年)に保存のために松坂城跡の現在地に移築され、 現在は本居宣長記念館によって管理されている。移築前の跡地とともに1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。 本居宣長の先祖は代々伊勢国の北畠家の家臣であり、本居家初代の本居武秀は蒲生氏郷に仕えた武将であった。 その子七右衛門の代から氏を小津と改めて松坂に住み、小津家は木綿問屋を営んで江戸店持ちの豪商として栄えていた。 宣長が11歳のとき父の三四右衛門定利が病没。商いは義兄の宗五郎定治が継いだが、小津家の家運は次第に傾き始めた。 義兄の死後宣長は小津家を継いだが、商いはやめ、氏を祖先の本居に戻した。そしてこの家で町医者を営むかたわら、 『古事記伝』の執筆をはじめとする日本古典の研究や後学の指導に取り組んだ。宣長が53歳のとき2階の物置を改造して 新しい書斎を作った。鈴を愛好した宣長は書斎の床の間の柱に掛鈴を吊り下げ、執筆活動の息抜きにそれを鳴らして音色 を楽しんでいたという。 ★topへ |
★歴史民俗資料館(松阪市立)wikipedia三重県松阪市殿町にある郷土史博物館。松阪市の歴史・民俗について広く展示し、とりわけ松阪商人、伊勢白粉 (いせおしろい、射和軽粉〔いざわかるこ/いざわけいふん〕とも)、松阪木綿に関する資料群に特色がある。 1912年(明治45年)に飯南郡図書館(いいなんぐんとしょかん)として建設された建物を利用しており、1997年 (平成9年)9月に本館と倉庫が日本国の登録有形文化財に登録されている。 |
★ 「原田二郎」(原田積善会HP) 原田二郎は、嘉永2年(1849年)10月10日、松阪市殿町で同心(清一郎)の長男として生れた。 21才のとき松阪出身の勤王志士 世古延世 (せこのぶつぐ)に随行して京都に上り、更に23才のとき維新後 間のない東京に遊学して英語と医術を学んだ。 その後大蔵省に勤め、31才で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮するが、 事情があって職を辞し松阪に戻った。 その後37才で東京に居を移して療養生活(胸部疾患)を送ったのち、明治35年(1902年)54才の時、 明治の元勲の一人である 井上 馨 の依頼を受け、家運の傾きかけた大阪の鴻池家とその経営する鴻池銀行 (後の三和銀行の前身)の整理、再建に当った。大正8年(1919年)に鴻池の建て直しに成功してその職を去った が、翌大正9年(1920年)原田二郎家を絶家のうえ全財産を拠出し、積年の計画であった原田積善会を設立。 その後10年間財団の代表者として運営に当ったが、昭和5年(1930年)5月5日、82才で死去した。 |
★松坂商人の館 ★topへ松阪商人の館は、江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しているものです。展示品の中には 「千両箱」ならぬ「万両箱」もあり、その広い屋敷はまさに「江戸店持ち伊勢商人」の風格を感じさせます。★topへ |