友歩会堀川編Part3・下見&例会レポート H24.10.20(土)&12.1(土)
天気:晴 下見:晴れ(9名)歩数:38,150歩 例会(59名)の歩数:37,295歩
コース:名鉄本線神宮前9:15発→熱田神宮→宮の渡し公園→裁断橋→神宮東公園→秀吉母宅祉→尾陽神社→
小酒井不木居住祉→鶴舞公園→溺死者慰霊碑→掘留水処理センター→清浄寺・矢場地蔵→地下鉄大須観音駅(帰宅)
★コースmap(PDF)参照 ★堀川編P1参照 ★美濃路&宮の宿 ★2010の美濃路探訪
用語解説 (★詳細・★資料解説)
★熱田神宮★堀川★宮の渡し公園★裁断橋★新堀川★(WP)★名古屋城★神宮東公園★秀吉母宅祉★尾陽神社 ★堀川と天王崎大王社★小酒井不木居住祉★鶴舞公園★溺死者慰霊碑(精進川)★掘留水処理センター★新堀川の橋梁 ★矢場地蔵★浪越公園と清浄寺★名古屋陸軍造兵廠熱田製造所跡(HP) ★友歩会(HP) ★日本武尊(天皇系図)
![]() 名鉄神宮前駅(受付)001 |
![]() コース説明hori121002 |
![]() 熱田神宮へhori121003 |
![]() 参拝してから出発hori121005 |
![]() 初冬の熱田神宮は心地よかったhori121008 |
![]() 常夜灯hori121017 |
![]() 境内の巨木@ |
![]() 境内の巨木A |
![]() 熱田神宮を後にするhori121022 |
![]() 熱田伝馬町の道標014 |
![]() 時の鐘と常夜灯(左奥)hori121024 |
![]() 新堀川(左)と堀川(右)の合流地点hori121027 |
![]() 熱田湊時の鐘(宮の渡し公園)018 |
![]() 散策マップ(水色の左方が新堀川)002 |
![]() 新堀川(内田橋が見える)021 |
![]() 歩道橋からみた新堀川hori121030 |
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![]() 裁断橋祉(解説)031 ★topへ 裁断橋は宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられて いた橋。 左は徳川家康幼児期の幽居地跡(六才)織田信秀の人質 となって加藤順盛の屋敷に幽閉されていた。八才の時には 今川氏の人質となって駿府へ行っている。hori121t020 |
![]() 2階部分は姥堂hori121036 |
![]() 初冬の新堀川沿いを歩くhori121036 |
![]() 新堀川036 |
![]() 神宮東公園を行く039 |
![]() 神宮東公園041 |
![]() 神宮東公園042 |
![]() 名古屋陸軍造兵廠熱田製造所跡(赤煉瓦造り)043 |
![]() 陸軍造兵廠熱田製造所跡の碑045 ★topへ |
![]() 名古屋市体育館048 |
![]() 新堀川の碑hori121039 |
![]() 熱田空襲で上部が破壊された西福寺石柱051 |
![]() 村雲公園で昼食(全員集合)8202 |
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![]() 延命地蔵と亀口の泉054 |
![]() 八幡神社と御器所八幡宮058 |
![]() 八幡宮(昼食予定)059 ★コースmap(PDF)参照 |
![]() 古木と石像が印象的だった061 |
![]() 秀吉母の居宅跡063 |
![]() 尾陽神社065 ★topへ |
![]() 那古野山古墳の古木hori121t106 |
![]() アベマキ(尾陽神社) |
![]() 御賀玉樹(尾陽神社と御器所西城址)070 |
![]() 小酒井不木居住祉076 ★topへ |
![]() 八幡山古墳の図と写真084 |
![]() 八幡山古墳(東海地区最大の円墳)086 |
![]() 鶴舞公園を歩く088 |
![]() 鶴舞公園090 |
![]() 初冬の鶴舞公園@ |
![]() 初冬の鶴舞公園A |
![]() 初冬の鶴舞公園B |
![]() 加藤高明伯銅像跡(台座)hori121061 |
![]() 竜ヶ池(鶴舞公園)092 |
![]() 胡蝶ヶ池(鶴舞公園)098 ★topへ |
![]() 121064 |
![]() 121066 |
![]() 121067 |
![]() 121068 |
![]() 胡蝶ヶ池(鶴舞公園)099 |
![]() 鶴舞公園(噴水塔)100 |
![]() 旧動物園跡(鶴舞公園→東山動物園)102 |
![]() 精進川溺死諸霊慰霊地蔵108 |
![]() 宇津木橋の宇津木の画(新堀川)109 |
![]() ランの館前を通る114 |
![]() 121076 |
![]() 121077 |
![]() 121080日本初の活性汚泥化法採用 |
![]() 排気筒121085 |
![]() 121086煉瓦造りのマンホールの蓋 |
![]() 再利用レンガの説明121088 |
![]() 121090いのくち式渦巻きポンプ |
![]() 121094下水処理場西の公園で最後の休憩 |
![]() 121096清浄寺へ |
![]() 121097 |
![]() 小林城主の墓・芭蕉句碑の案内(清浄寺)117 |
![]() 信長関連の墓121101 |
![]() 清浄寺の黄葉hori121103 |
![]() 矢場地蔵堂(清浄寺)・大須123★★コースmap(PDF)参照 |
![]() 銀杏の黄葉(清浄寺)hori121t098 |
![]() 清浄寺の黄葉hori121t099 |
![]() 大須繁華街を歩く121104 |
![]() 那古野山古墳(浪越公園・解散)132 ★topへ |
時の鐘と常夜灯(左奥)hori121w025 ★topへ |
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村雲公園で ★topへ |
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★熱田神宮(Web参照) ★topへ御祭神:熱田大神 配祀:天照大神 素盞嗚尊 日本武尊 宮簀媛命 建稻種命 名古屋市熱田区にある。通称、熱田の森に鎮座。 江戸時代には東海道五十三次「宮宿」が栄え、南700mに残る「七里の渡し」から伊勢桑名へ向う交通の要衝に位置し ていた。古くは伊勢湾に突き出た熱田大地の南端に位置していたという。 南の正門から入り、参道を北へ4・500m歩くと拝殿。拝殿の奥に、瑞垣・内玉垣・外玉垣の三重の垣に囲まれて社殿 が立つ。社殿は、神明造の御正殿(本宮)を中心に、東西に宝殿がある。 元は尾張造という社殿構成だったが、明治二十六年の改築時に三種の神器を祀るお宮として伊勢の神宮と同じような構成 に改められた。 官幣大社であり、尾張三宮の神社だが。楠の巨木の多い境内は広く、伊勢の神宮に次ぐ格の大社なのだそうだ。 尾張三宮と称するのは、単純に尾張国府からの距離によるものとも。三種の神器の一つである「草薙剣」を祀る神社。 「草薙剣」は、素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治したときに、その尾から取り出し、天照大神に献上された「天叢雲剣」。 その後、皇位の象徴として天孫瓊々杵尊に授けられたもの。日本武尊が、吉備武彦と建稲種を伴って東征の折り、 伊勢神宮斎宮である姨の倭姫命より、この神剣一振と御嚢一つを賜った。 一行が尾張に到着したときに、建稲種の妹・宮簀媛命と知りあい婚約する。 その後、日本武尊が賊による計略で狩のさなかに焼き殺されそうになった時、神剣が、草を薙ぎ倒して日本武尊の命を 救ったことにより「草薙剣」と呼ばれ、その地を焼津と呼ぶ。 東征を終えた日本武尊は、宮簀媛命の元に、この神剣をあずけ、そのために伊吹山の神の祟りによって命を落としてし まう。宮簀媛命は、日本武尊との契りにより、その神剣を守ってきたが、宮簀媛命が老い衰えてきたので、社地を定め て神剣を祀ることにした。その社地には、楓樹一株があったのだが、自然に燃えて水田に倒れ、その火がいつまでも消 えず、周囲の水田が熱くなったので、「熱田」と呼ぶようになった。 その後、神剣は、新羅の法師道行によって盗まれたが、無事、天皇家に戻り、宮中に祀られていたが、天武天皇朱鳥 元年(686年)、天皇の病気の原因が草薙剣の祟りであるとして、熱田の社へ戻し、守人七人を置いて、これを祀 ったという。 当社の近くにある断夫山古墳は、宮簀媛命を葬った場所で、日本武尊に忠誠を尽くし、以後、夫を持たなかったため、 断夫という。また、おなじく近くにある白鳥古墳は、日本武尊の御陵であるという。 祭神・熱田大神は、草薙剣を御霊代とする天照大神のこと。建稻種命・宮簀媛命兄妹は、尾張国造の祖である。 熱田神宮には境内外に、別宮一社、摂社十二社、末社三十一社がある。境内には、別宮一社、摂社八社、末社十八社。 一之御前神社と内天神社の二社に関しては未確認。一之御前神社は本宮の後方、内天神社は大幸田社の近くにあるら しい。本宮と八剣宮・高蔵宮(高座結御子神社)・日破宮(日割御子神社)・氷上宮(氷上姉子神社)・源太夫社 (上知我麻神社)・紀太夫社(下知我麻神社)は熱田七社と呼ばれ、重要視されている。 ★topへ ★日本武尊(12代景行天皇の子)と天武天皇(40代)の系図(下記の系図参照)★topへ |
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★熱田神宮(Web)(Wikipedia) ★topへ祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ・天叢雲剣)を 神体としている。同項に詳しいが、剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも熱田神宮に保管されたままとも言われている。 相殿神に天照大神(あまてらすおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと) 宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)を祀る。 113年(景行天皇43年)創建とされ、2013年(平成25年)に創祀1900年を迎える。 旧官幣大社、式内社(名神大)で、建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼 ばれる独特の建築様式だった(氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)。社務所に当たる組織は熱田神宮 宮庁と呼ぶ。その他施設に、熱田神宮文化殿(宝物館、熱田文庫)、熱田神宮会館、龍影閣があり、敷地内には愛知 県神社庁、神職養成機関の熱田神宮学院がある。 『東海道名所図会』に「熱田大神宮」と記載される。『海道記』に「熱田の宮の御前を過ぐれば」とある。 ★topへ |
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★宮の渡し公園 (★Web参照) ★topへ 松重閘門(まつしげこうもん)とは、愛知県名古屋市中川区にある閘門である。現在は使用されていない。 庄内川と都心をつなぐ堀川と、名古屋港と都心をつなぐ中川運河とを結び、近代期の名古屋の産業発展を支えていた 遺構。 中川運河は潮の干満に影響されない閘門式運河です。庄内川の水をかんがい用水として流している堀川は松重町では 中川運河よりも水位が高くこの水位差を調整するのが松重閘門です。両端にそれぞれ上下式の水門を持つ幅8.5m、 長さ90mの水路で船が中川運河から水路に入ると中川側の水門を閉め、地下の暗梁で堀川の水を水路に入れて水位 をそろえたのち、堀川側の水門をあけて船を堀川に通します。 船は約20分で閘門を通過したといいます。水門を開閉する機械装置を取り付けた鉄橋を支持し、水門開閉用の釣り 合いおもりを収容しているのが松重閘門の塔です。 ★参考:中川運河(Wp) ★堀川(Wp) ★コースmap参照 ★topへ ★裁断橋 ★topへ 裁断橋は宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られ ていた。なお、永正6年(1509年)の『熱田講式』には既にその名が見られるという。擬宝珠の銘文には、天正18年 (1590年)の小田原征伐で死去した堀尾金助という18歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が33回忌に息子を最後に 見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている。 ★topへ ★新堀川(WP) ★topへ 愛知県名古屋市中区にある堀留水処理センターを起点として、精進川低地に沿って市内を南流し、南区明治にて 堀川へと注ぐ。流路は中区、昭和区、熱田区、瑞穂区、南区の境となっている。 ★精進川から新堀川へ かつて今池辺りを源流として名古屋台地を流れていた精進川(しょうじんがわ)(昔、熱田神宮の神職が6月の 名越の祓の際にこの川でみそぎをしたことからこの名が付けられたと言われる)は多くの湧水による豊富な水量 を持っていたが、曲がりくねった川筋が洪水の原因ともなっていた。この洪水の発生を防ぐとともに、船舶の 航行と下水処理水の受け皿とするため、1883年(明治16年)に運河として改修する計画が建てられ、1910年 (明治43年)に現在の川筋に付け替えられた。新堀川という名称はこの付け替えの際に付けられたものである。 なお、元の精進川は1926年(大正15年)に埋め立てられ、消滅している。 現状 長年に渡るヘドロの堆積の影響 により、特に酷暑期にはヘドロの浮遊が見られる他、異臭も酷い。これは流入する河川が無い上に、運河として開 削された当時に熱田港への合流部から最深部までほぼ水平となるように設計・掘削されていることで、その全域が 感潮域となっているためである。 2007年(平成19年)4月1日、河川の管理権限が愛知県から名古屋市に移譲されている。 ★topへ 尾陽神社 ★topへ 由緒 :明治時代になって旧尾張藩士の請願によって名古屋東照宮に合祀されていた徳川義直(初代尾張藩主) と徳川慶勝(14代・17代)を祀るための神社として、名古屋開府300年記念事業に合わせて旧藩士による戴恩会 が結成され、1910年(明治44年)に創建。1922年(大正11年)6月30日に県社に列せられたのち、大正13年10月 28日に遷座された。 神社の資料では別格官幣社に昇格の内示があったものの、太平洋戦争の勃発があったため昇格は叶わなかった としている。当初造られた社殿は神明造であったが1945年(昭和20年)の名古屋大空襲により焼失し、現在の 社殿は1970年(昭和45年)に再建されたものである。 1949年(昭和24年)に天照大御神を主祭神として合祀。また、1973年(昭和48年)には徳川家本邸の栄世稲荷 神社を、1976年(昭和51年)には大神神社の摂社である久延彦神社の分霊を受けて摂社として祀っている。 なお、久延彦神社の社殿は枚方市にある山田神社から贈られたもので、元々は約200年前に春日大社の本殿とし て使われていたものであるという。 ★topへ 矢場地蔵(清浄寺、矢場地蔵 (ショウジョウジ、ヤバジゾウ)徳寿山 無量院 清浄寺) ★topへ 清浄寺は、かつては広大な敷地を持っていた小林城跡に位置します。現在は、小林城の姿はなく大須の矢場 とんビルを大津通りをはさんで、反対側にひっそりとたたずんでいます。本堂裏には延命地蔵尊で知られる矢場 地蔵尊、芭蕉句碑が建っています。 ★topへ 小酒井不木居住祉 ★topへ ★コースmap(PDF)参照 愛知県海部郡新蟹江村(現・蟹江町)出身。出生地は愛知県名古屋市。愛知一中、三高、1914年、東京帝国大学 医学部卒業。推理作家の他に、SFの先駆者とも言われる。東北帝国大学教授であり、医学博士でもある。 当時、生理学の世界的な権威だったという。また、スウェーデンの大衆小説作家であるサミュエル・ オーギュスト・ドゥーゼの作品を翻訳したり、鳥井零水の号で推理小説を翻訳したりしていた。 1929年、38歳の若さで急性肺炎で逝去。死後、改造社から17巻にもおよぶ大著作集が出版された。★topへ 鶴舞公園 ★topへ 鶴舞公園(つるまこうえん)は、愛知県名古屋市昭和区鶴舞(つるまい)1丁目にある、名古屋市が管理する 都市公園。名古屋で、最初に整備された公園である。国の登録記念物(名勝地関係)に登録されている。 日本さくら名所100選に選定されている。 明治42年(1909年)に、名古屋最初の公園として開設された。翌年に開催が予定されていた第10回関西府県 連合共進会の会場とすることを主目的として、また当時の名古屋に存在しなかった大公園を開設することも 含めて整備された。なお、当地に立地された理由は、予定されていた新堀川整備に伴う大量の土砂の処理の ために、当時沼地であった当地を埋め立てて整備するのが効率的と考えられたからである。 共進会の終了した後も公園整備がすすめられ、動物園の開園(後に東山に移転)、図書館建設、普選記念檀 (普通選挙制度の成立を記念)が名古屋新聞社(現・中日新聞社)より寄贈、名古屋市公会堂の建設 (昭和天皇の成婚記念)と整備された。 戦後の一時期は進駐軍が使用したため市民の利用は制限されたが、現在では八幡山古墳を除く全域が市民に 開放されている。春から夏にかけては、桜、チューリップ、バラ、菖蒲、紫陽花と多くの花を見ることがで き、4月〜6月にかけては花まつりが開催される。特に桜については、さくら100選に選ばれるほどである。 元々、この地は水流間(つるま)という地名で、公園設置にあたり縁起の良い「鶴」の字を当てて鶴舞公園 (つるまこうえん)とされたが、その後にできた隣接する旧国鉄の鶴舞駅(当初は臨時駅)や、昭和区内の 町名がいずれも「つるまい」としたために、区別無くいつしかつるまいこうえんと呼ぶ者も多くなった。★topへ 加藤高明(Wikipedia) 万延元年1月3日〜大正15年1月28日 (1860〜1926) 愛知生まれ。外交官、政治家。父は名古屋藩士。東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社。 明治19年(1886)岩崎弥太郎の長女と結婚。官界に転じ、大蔵省銀行局長、駐英公使などをつとめる。 33年(1900)第4次伊藤内閣外相となる。35年(1902)衆議院議員に当選。東京日日新聞社長、第1次西園寺 内閣外相、駐英大使、第3次桂、第2次大隈各内閣の外相を歴任。大正4年(1915)貴族院議員に勅選。 翌年に憲政会総裁となる。13年(1924)護憲3派内閣の首相に就任。 翌年普通選挙法、治安維持法、日ソ基本条約を成立させた。 五条橋(web)(以下参考) 名古屋市西区の堀川に架かる五条橋(ごじょうばし)は、かつて清洲城下の五条川に架けられていた橋を、 慶長15年(1610)に始まった清洲越しの際に、この地に移築したものです。そのため五条橋の擬宝珠(ぎぼし) には、堀川が開削された慶長15年より古い慶長7年の銘が確認できます。 もとは木橋でしたが昭和13年(1938)にコンクリート製に架けかえられました。御影石の親柱、高欄、擬宝珠、 石張舗装などの特徴があり、現在でも昔の雰囲気を感じさせます。 西南隅櫓(名古屋城) ★topへ 重要文化財の西南隅櫓(すみやぐら)は、未申(ひつじさる)櫓ともいわれ、屋根二層・内部三階の櫓です。 西・南両面には軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けています。明治24年(1891)、濃尾大地震で石垣 と共に崩壊してしまいましたが、大正11年(1922)から12年にかけて、宮内省によって復元されました。 鬼瓦などに菊花紋が見られます。戌亥隅櫓(清須櫓) ★topへ 櫓は北西隅と北東西寄に2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓(西北隅櫓)が現存している。3層3階のその規模 は弘前城天守や丸亀城天守も上回る大きさである。1611年(慶長16年)に清須城天守または小天守を移築した ものと伝えられているため清須櫓とも呼ばれている。 名古屋城(web) ★topへ 名古屋城(なごやじょう)は、徳川家康が豊臣秀頼との戦いに備え、東海道の要所として築いた平城です。 慶長15年(1610)に加藤清正・福島正則・前田利常など北国・西国の諸大名20名に普請(土木工事)を命じ、 慶長17年に天守閣が、さらに2年後の慶長19年に本丸御殿が完成しました。 そして元和2年(1616)、家康の子・義直が清洲から入城し、以来明治維新を迎えるまで、名古屋城は御三家筆頭 の尾張徳川家の居城として栄えました。 第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月、名古屋空襲によって多くの建物が焼失しましたが、昭和34年(1959) 10月に天守閣・小天守・正門・金鯱が再建されました。表二之門と東南・西南・西北の隅櫓3棟が重文に指定され ています。なお、本丸御殿の復元工事が平成29年(2017)の完成を目指して進められています。 ★名古屋城(wikipedia) ★topへ |
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★堀川ウオーキング参照(H24.2.4) あつたウオーキングマップ (堀川は左上から、新堀川は右側から流れている)★topへ ![]() ★topへ ★コースmap(PDF)参照 |
熱田伝馬町道標 ★topへ![]() |
裁断橋跡 ★topへ![]() |
尾陽神社 ★topへ![]() |
尾陽神社と御器所西城跡 ★topへ![]() |
八幡山古墳 ★topへ![]() |
鶴舞公園案内図 ★topへ![]() |
小林城跡 ★topへ![]() |
浪越公園跡 ★topへ ★浪越公園(那古野山古墳)★浪越山盛衰記(PDF)参照★たぬき山(俗称)参照 ![]() ★浪越公園(那古野山古墳)(WP) ★浪越山盛衰記(PDF)参照 ★コースmap(PDF)参照 概要 「大須古墳群」の内の一つで5世紀中?後半に造営されたと考えられている。元は前方後円墳であったが、 江戸時代に禅寺・清寿院の後園が造営される際に、前方部は取り壊された。清寿院に取り込まれて 「浪越山」と呼ばれたのが現在では後円部とされる部分で、直径22メートル、高さ3メートル。 明治5年(1872年)に清寿院は廃され、明治12年(1879年)に愛知県下初の公園(浪越公園)として開放 された。明治43年(1905年)に鶴舞公園が開園すると浪越公園は廃止されたが、大正3年(1910年)に 規模を大幅に縮小して、名古屋市設置の那古野山公園となった。 現在では三方をビルなどに囲まれた状態となっている。 年表 6世紀頃 - 造営 江戸時代 - 清寿院の後園が造営される 1879年(明治12年) - 浪越公園として開放 1905年(明治43年) - 浪越公園が閉園 1910年(大正3年) - 那古野山公園が開園 |