第104回史跡巡りシリーズ・岐阜編Part16 (詳細・拡大)
(2024年10月5日(土)天気:晴れ):欠席
※下記画像は、下見・例会病気欠席のため、ほとんどがH28(2016.6.4)の例会時のものです。
友歩会第62回(H28)例会岐阜編p9(H28/2016.6.4)
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壬申の乱図(壬申の乱は西暦672年に起きた古代史上最大の内乱) Top
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壬申の乱(672)(web『国史大辞典』参照) Top天智天皇の死の翌年の六七二年に起った皇位継承をめぐる大規模な内乱。壬申の年にあたるので壬申の乱という。なお、『日本書紀』は弘文天皇 (大友皇子)の即位を認めず、この年を天武天皇元年とする。乱の直接の原因は皇位継承の争いである。天智天皇は、大化改新を断行して律令制 集権国家の基礎を築き、大きな権力を握って近江大津宮で即位したが、後継者の決定がおくれた。その理由の一つは、天智の皇后倭姫王 (舒明天皇の孫)や蘇我氏・阿倍氏など有力豪族出身の妃からは健康な皇子が生まれなかった(一人の皇子は夭逝)ことにある。 当時の慣例では、皇族または畿内有力豪族出身の后妃所生の皇子でなければ、皇位を継ぐことは困難であった。 また当時の慣例では、天皇に有力な兄弟のある場合、皇子よりも兄弟がさきに位を継ぐことが多い。天智には同じ母(斉明天皇)から生まれた弟 の大海人皇子があった。慣例に従って大海人皇子ははじめ天智の有力な後継者とみなされたと推測される。大海人は斉明朝以降、天智を助けて政治 に参与し、またこのころ天智の女の大田皇女・鵜野讃良(うののさらら)皇女を妃としており、天智との関係は緊密で、大海人が天智の後継である ことは確実と思われた。ところが天智天皇七年(六六八)、天智が正式に即位するころから情勢に変化が生じた。天智の皇子に伊賀の豪族出身の 采女宅子娘(やかこのいらつめ)の生んだ大友皇子があり、天智天皇七年には二十一歳になる。天智は次第にこの皇子への愛情と期待が高まり、 同十年正月に太政大臣に任じた。太政大臣は天皇を補佐して政治を総攬する職で、当時では太政大臣就任は立太子と同様の意味があった。大友が 皇太子となると、大海人の宮廷における地位ははなはだ不安となる。彼は天智の処置を恨んだと思われるが、危険を避けるために同年十月大津の宮 を出、妃鵜野(うの)皇女や若干の舎人・女孺らを従え、吉野に入って機会を待ち、同年十二月の天智の死後約半年して挙兵、皇位を大友皇子から 奪回し、天武天皇となる。これが壬申の乱の大筋であるが、乱がこのようにして起り、大海人の勝利に終るには、なお多くの事情や理由があった。 基本的には、大化以来の新政の進行によって、従来の特権を失った地方豪族層の近江朝廷への不満があったと思われる。特に斉明天皇末年から天智 天皇初年へかけての朝鮮出兵とその敗北後の防衛のための山城築城や近江遷都による負担の増大は、彼らの不平をいっそう高めたであろう。 これに対し畿内有力豪族の多くは、中央集権の強化により朝廷に官職を得て、特権的地位を保持した。しかし、大化以前の有力豪族のすべてが高級 官人となることはできない。なかには地位を失って近江朝廷に反感を持つ氏族もあった。たとえば、天智天皇十年正月の新官制によって任命された 左・右大臣と御史大夫三人の計五人の政府首脳の人事に洩れた大伴氏などがそれである。 ながく都のあった大和をはなれて近江に遷都したことに反感をもつ畿内豪族もあったであろう。また皇族層には、天智が多年の慣例を破って地方 豪族出自の女を母とする大友を後継者としたことを不満とし、大海人の再起を期待するものが多かったと思われる。大海人は吉野に隠棲することに よって、かえって当時の皇族・貴族・官人層の同情を集めた。彼が大津宮を去ったのを、ある人が虎に翼をつけて放ったのと同じだといったと 『日本書紀』は記している。こうした情勢を天智は当然知っていたはずだが、この年九月以来重病の床にあり、適切な対策を講ずるいとまもなく、 同年十二月に没した。大友はそのあとを継ぎ、近江朝廷にあって政治をとった。正式に即位したかどうかは疑問で、『日本書紀』をはじめ、七、八 世紀の文献には大友の即位を示す記録はない。しかし天智の死後、事実上大友が天皇の地位を継いだことは疑うに及ばない。平安時代中期以降、 大友の即位を記した史料があらわれ、江戸時代に『大日本史』が大友即位を主張し、明治三年(1870)七月に弘文天皇の諡号(しごう)がおく られた。『日本書紀』は大海人の挙兵が皇位強奪とならないように、大友の即位の事実をかくしたのだとする説もある。いずれにせよ、政治は近江 朝廷によって行われたが、吉野の大海人の存在は天智の死後重みを増した。時期は不明だが、前記の大伴氏の中心人物である馬来田(まくだ)・ 吹負(ふけい)の兄弟は、将来皇位につくのは大海人であろうと考え、近江朝廷を去って大和の家に帰った。近江朝廷は大海人に対する警戒を強 め、大津京より飛鳥古京に至る間に候(うかみ)を置くなど監視体制を強化した。こうした処置は大海人側を刺激し、両者の関係は緊張の度を強め たと思われる。壬申年(六七二)五月、近江朝廷は天智の陵を造る名目で美濃・尾張の国司に命じて人夫を集め、これに武器を執らしているが、 吉野を攻める準備であろう、という情報が吉野にもたらされた。これが大海人が挙兵を決意する直接の原因であろう。一方、国際情勢をみると、 唐は新羅と連合し、百済を六六三年、高句麗を六六八年に滅ぼして朝鮮半島を制圧したが、天智天皇九年ごろより唐に対する新羅の反撃が始まり、 高句麗遺臣の反乱も起った。こうして朝鮮はまたも戦乱の地となり、近江朝廷は唐・新羅の両方から援兵を求められ、国際的緊張も高まっていた。 この困難な時局に対応するには、若くて経験未熟、しかも母の出身から貴族層の衆望の得にくい大友より、この時四十二歳(推定)、豊かな経験 と人望をもつ大海人が天皇として適任と考える人々も、朝廷の内外に多かったであろう。六月二十二日、ついに大海人は行動を起す。 まず舎人の村国男依らに、大海人の所領である美濃国安八磨郡の湯沐邑(ゆのむら)に急行して募兵し、さらに美濃国司にも兵を集めさせて不破 の道を塞ぐことを命じて先発させ、大海人自身は二日後の二十四日、鵜野皇女と草壁・忍壁両皇子、舎人・女嬬ら三十余人を率いて吉野を出発、 強行軍して夜に伊賀国を南から北へ通過し、二十五日の朝、積殖(つむえ)の山口(三重県阿山郡伊賀町)で大津京から駆けつけた大海人の長子 高市皇子と合流、伊勢国にはいって国司の出迎えを受け、一隊を派遣して鈴鹿の山道をふさぎ、さらに翌二十六日には伊勢の朝明郡(三重県三重郡) で美濃国の募兵の成功の報を聞く。大海人は高市皇子を不破に遣して前線を指揮させるとともに、東海・東山両道に募兵の使者を出す。二十七日 には尾張国司が二万の兵を率いて、不破に至った大海人に帰参した。このように大海人側の戦備が順調に整ったのに対し、近江側は不意をつかれた うえに、大海人の挙兵を聞いたとき、近江朝廷の群臣はことごとく愕き、山沢に逃れようとする者もあったと『日本書紀』に記すように、朝廷内部 の不統一が表面化し、対応がたちおくれた。兵力の動員も、東国への使者は不破を通過できず、吉備・筑紫での募兵も、吉備国守・筑紫大宰が 大海人に好意を持っていたため、成功しなかった。 大和では、形勢を伺っていた大伴馬来田は大海人に従って東国に入り、吹負は二十九日に挙兵して飛鳥古京を占拠し、大和の豪族を味方につけ、 大津京攻撃の姿勢を示した。事態はここでも大海人側に有利に進展した。それでも政権を持つ近江朝廷側は、畿内とその周辺から集めたと思われる 大軍を動かして攻勢に出、大和・伊賀では一時大海人側を破ったが、大海人側はやがて反撃して、次第に近江軍を圧倒し、湖東の平野を進んだ主力 軍は七月二十三日に大津京を陥れ、大友皇子は自殺した。勝利を手にした大海人皇子は、右大臣中臣金を死刑、左大臣蘇我赤兄を流刑にするなど 戦後の処置をすまし、同年九月に大和に帰って飛鳥浄御原宮を営み、翌二年即位した。天武天皇である。以上が乱の原因・背景・経過であるが、 反乱を起し実力で皇位についたため、天武の権力はきわめて強く、前代以来の貴豪族の勢力を抑え、律令制をとりいれた中央集権の政治を大きく 推進することができた。これが壬申の乱のもっとも大きな歴史的意義といえよう。なお乱の原因に、額田女王の愛をめぐる天智と大海人の争いが あるとする説や、百済系渡来人と新羅系渡来人の対立があるとする説などがあるが、疑問である。また大海人は挙兵に際し、大友を秦の二世皇帝 に、自分を漢の高祖に比したとする説もある。 Top [参考文献] 直木孝次郎『壬申の乱』(『塙選書』一三)、北山茂夫『壬申の内乱』(『岩波新書』黄五六)、亀田隆之『壬申の乱』 (『日本歴史新書』)、星野良作『研究史壬申の乱』、井上光貞「壬申の乱―とくに地方豪族の動向について―」 (『日本古代国家の研究』所収) (直木 孝次郎)(以上、国史大辞典) ---------------------------------(以下、世界大百科事典) Top 壬申の乱で勝利を得た大海人皇子は翌673年2月,飛鳥京の飛鳥浄御原宮において即位し,皇位についた。 この天武天皇の政権は壬申の乱によって旧畿内大豪族である蘇我,中臣などが大きな打撃をうけたため天皇の権力が強化され,律令中央集権国家 へ大きくきりひらく性格をもつこととなった。天武政権は,壬申の乱で支持基盤となった中央の中小豪族,地方豪族,および天皇に近侍する大伴 氏や舎人集団を中核としており,天皇家がその権力を強化するのにふさわしい構造をもっていたのである。また,壬申の乱は大友皇子と大海人皇子 との皇位継承の抗争によってひきおこされたものであるが,畿内はもちろん,全国的にも兵力が動員され大規模な内乱にまで発展したのは,それな りの社会的背景が考えられなくてはならない。その根底には天智朝に至るまでの政府の政策に対する民衆の抵抗が考えられるが,具体的な乱との 相関関係はつまびらかでない。また乱に参加した豪族の中には,同族の中で分裂して大友,大海人それぞれの側について戦ったものも多くみとめら れ,当時豪族内の結束がしだいに弱体化し分裂した傾向をみせはじめていたことが知られる。このことも壬申の乱の規模を拡大した一因になって いたかもしれない。[鬼頭 清明]Top ------(以下、『壬申の乱と関ヶ原の闘い』本郷和人(祥伝社)) ★壬申の乱関連年表(PDF) Top 日本国の誕生(p65) 壬申の乱の翌年、天武天皇二(673)年に大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇になりました。(飛鳥朝廷)壬申の乱は、天皇の長子と弟が 国を二分して争った闘いであり、この後、日本という国の姿は大きく変わりました。それまで「大王」(おおきみ)と呼ばれていたのが、天武朝 から「天皇」(すめらみこと)になったことです。 同時に、天皇を讃える神話が作られた。『日本書紀』『古事記』が編纂され、神武天皇は天照大神(あまてらすおおみかみ)の末裔であるとして、 天皇の存在における超越性についての理論武装が行われた。また、仏教と神道を両輪とする王権も確立した。天武天皇は、遣唐使の派遣を中止し、 国内政治に重きを置きました。不破道、鈴鹿山道などに関所を置いて畿内の守りを固めるとともに、東国への勢力拡大にも取り組みました。 壬申の乱をきっかけに関ヶ原が東国と畿内の分かれ目であり、重要な場所であるという認識が共有された。不破、鈴鹿、愛発(あらち)の3つの 関所を結ぶ防衛ラインは、当時の日本の東側の国境を意味したのです。いわば、日本国の原型がこの時代に誕生したわけです。そして、「日本国」 という国号もこの時代に生まれました。文武天皇の大宝二(702)年に朝廷は遣唐使を再開したが、彼らは、この時初めて日本国の使者だと主張し ました。これが文書に残っている日本という国号の初出です。・・・不破関から東は「関東」と呼ばれたが、関東は異国であると同時に、フロンティア でもあった。アメリカが東から西へと開拓されていったように、日本では、畿内から東へと開拓が進んだ。畿内はもとより、中国、四国、九州北部 などの西国は、いわば既得権益の網がかけられたエリアで、新たな権利設定はなかなか難しくなっていました。それ故、大海人皇子が湯沐邑 (ゆのむら)に領地を持ったように、東国への進出によって新たな権益を獲得しようとしたのです。天武から時代が下り、朝廷の力が増すと、その 勢力範囲は急速に東に広がり、聖武天皇の時代には、全国に国分寺・国分尼寺が造営され、こうして、観念的には日本はひとつであることを意識 できるようになったのです。そして、関東エリアも東へと移動し、縮小していきました。桓武天皇の時代には、征夷大将軍・坂上田村麻呂を東北 地方にまで送るようになりました。中部地方も日本国の勢力範囲に組み込まれ、関東は、箱根から東側、つまり現在の関東地方の姿になっていった のです。(p67) Top |
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金生山の生い立ち(解説によれば、「古生代の終わり頃、約2億5千万年前、赤道直下に存在した珊瑚礁。プレート運動によって北に運ばれ、 中生代ジュラ紀に大陸縁辺に付加、その後日本海の形成に伴い、現在の場所に移動してきたと考えられる。」とあります。) Top ![]() |
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全員集合(金生山化石館前)/★第62回例会(2016.6.4/平成28年) 岐阜編P9 ak62w045 Top![]() |
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