友歩会第103回・名古屋編Part16下見&例会レポート (
詳細拡大
R6(2024).5.18(土)下見 & R6(2024).7.6(土)例会(晴れ)
下見5.18:晴れ。歩数20,124歩(8名)、例会7.6:(36名)歩数:21,386歩。
コース:中島バス停7:51発→名鉄一宮発特急8:15発→金山乗換→呼続駅8:51着→松巨島(9:00)(出発式)
白毫寺鳥栖古墳医王寺成道寺石仏→(Sコース:4km・鶴里駅へ)→笠寺公園笠寺観音(wikipedia
呼続公園桜駅(名鉄)

(コースマップ)参照 友歩会(HP)名古屋市 南区 (名古屋市) 全員集合 
南区周辺の古墳時代の海岸線と明治の地形図(PDF)
53回名古屋編P4(2014.10.18下見)

解説
呼続駅松巨島白毫寺鳥栖古墳医王寺成道寺石仏鶴里駅呼続神社(富部神社)
笠寺一里塚笠寺公園笠寺観音呼続公園桜駅(名鉄)南区


名鉄呼続駅001

熊野三社(松巨島)へr103003

熊野三社(松巨島)の本殿r103008

熊野三社(松巨島の手洗)r103011

熊野三社(松巨島)の受付r67601

熊野三社奉賛会の宇津野さんから松巨島の説明を聴く013

白毫寺へ 017

白毫寺本堂 018

年魚市潟勝景の碑(白毫寺内) r103022

年魚市潟の歌(万葉集)(白毫寺内)r103025

鳥栖神明社古墳 031

鳥栖神明社古墳 033

医王寺へ036

医王寺本堂039

成道寺 r103044

成道寺本堂 r103042

成道寺の仏足石 r103041

成道寺石仏の説明 r103043

八剱社へ045

鳥栖八剱社古墳046

八剱社古墳の説明049

八剣社で集合写真r67616

村上社クスノキ r67620

都市景観保存樹・村上社クスノキ r67625

八幡社 桜田の万葉集の歌064

八幡社 桜田勝景跡r103065

八幡社 桜田貝塚068

八幡社 桜田貝塚

笠寺公園へ 071

笠寺公園案内 079

笠寺公園(名古屋市見晴台考古資料館)073

資料館内部 082

笠寺公園で昼食34

笠寺公園内の金さん(右)と銀さん桜(左)の碑37

金さん桜38

銀さん桜39

笠寺公園(住居跡観察館へ)085

笠寺公園(住居跡観察館内見学)r676866(Tさん撮影)

笠寺大地(松巨嶋)の地形図は拡大版を参照して下さい。

観察館内の様子 086

見晴台の濠再現コーナー 075

笠寺観音は毎月18日は縁日で賑わう(103回2024.5.18)099

笠寺観音本堂(103回2024.5.18) 100

笠寺天満宮 東光院へ(53回2014.10.18) 086

笠寺天満宮(53回2014.10.18) 088

笠寺本堂(53回2014.10.18)103

藤原兼平公と玉照姫(53回2014.10.18)105

富部神社へ119

源頼朝公旗掛松122

動物霊園(5.18)124

盲導犬慰霊碑(5.18) 125

動物守護観音(5.18) 129

立木観音堂(十一面観世音菩薩)(5.18) 126

寺沢会長の終了挨拶(2024.7.6)60

桜駅へ(5.18)131
解説   (コースマップ)参照        topへ
呼続駅              topへ
愛知県名古屋市南区呼続1丁目にある、名古屋鉄道名古屋本線の駅である。駅番号はNH31。
topへ
桜駅(〒457-0014 名古屋市南区呼続四丁目27番15号)/左上に呼続駅/右に鶴里駅/左に富部神社/下に笠寺観音
駅番号はNH30。(普通車のみ停車)
topへ
topへ
松巨島(wikipedia)   topへ
松巨島(まつこじま)は、かつて愛知県名古屋市南区の笠寺台地(現在の名鉄名古屋本線「桜駅」周辺)に存在した島。
松炬島とも。
「概要」
松巨島の位置
周囲を年魚市潟に囲まれた南北3km、東西1.5km、標高10m程の島。現在でいうと北は新瑞橋駅南側・南は星崎・東は呼続・西は
鶴里駅東側あたりでくさび形の形状であった。天白川方面には松が生い茂り、熱田神宮方面から眺めると『松がある大きな島』
と見えた事から、松巨島と呼ばれるようになった。また、水害において松巨島があったあたりは伊勢湾台風時、東海豪雨時にも
水没しなかった。
江戸時代に東海道が主流になるまでは、熱田神宮への鎌倉街道の陸路(上の道)は緑区古鳴海より天白区野並から島田方面へ瑞穂
区井戸田と続いていたのに対して、海路は、古鳴海(当時は神戸とも呼称し野並村と古鳴海郷の間にあった湾。現在の野並三丁目
と古鳴海の境にある藤川あたり)より、満潮時は舟、干潮時は徒歩で、松巨島の鳥栖八剱社へ渡る(中の道)と、緑区鳴海より
笠寺観音に渡る(下の道)があった。白豪寺より再び舟で熱田へと渡っていた。
topへ
松巨嶋縁起 名古屋市南区 r103wmatu.jpg   topへ
白毫寺(びゃくごうじ)(WebHP) topへ
名古屋市南区、白毫寺の寺歴は元亀二年、桂岩昌玖大和尚開山となり 又、天正四年鳳巌珠公師開基となり、草庵を法地起立開山
となりました。 元緑年間に本堂が建立され(戦災焼失)庫裡の大改築、山門を建立。天保時代、十三代無着黄泉大和尚は
「東海禅林」の修行道場を開き 参学の雲水・学僧が多く集まったといわれております。
当寺境内地は、松巨島の北西部に位置し高台地の下は「年魚市潟」と称せられておりました。 最初の文献にあらわれたのは、
日本書紀草薙剣のことを書いた条に、「剣今在尾張国年魚市郡熱田」とあるのが始めと云われます。
 奈良時代に至り持統天皇が三河国へ行幸遊ばされた時高市連黒人も随行し 「桜田へたづなき渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き
わたる」の歌も その時に詠んだと云われ、万葉集第七巻に 「年魚市潟塩干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖による見ゆ」という
歌もあります。
「東海道が出来るまで」
鎌倉時代に至り鎌倉海道も整備され桟敷山、仙間山の谷間に湧き出る泉(あゆち水と称せられ後世愛知の語源と云われる)で、
喉をうるおし、草庵に憩い、旅の疲れを癒やし、風景を賞でたと云われております。 この海道は、東海道が出来るまでの主要
道路であり、当寺の北の石垣の下の道が、 その面影を残す処と云われております。江戸時代になり、俳聖芭蕉が当寺を数回来訪
され「春風や戸部山崎のやねの苔」 の句碑が立てられております。 
又、小堀遠州公も度々来寺され、詩歌茶事等、風流を楽しまれたと伝えられております。
「年魚市潟」
時移り、大正天皇御即位の礼が、京都で行われた時、愛知県が悠紀斉田に勅定され、大嘗祭の式場の屏風に年魚市潟と桜田の絵
が描かれ、明治の元勲黒田清綱公が、自作の歌を書かれたのでいよいよ年魚市潟が世人に知らるるに至り、大正九年には 愛知県
より文化財名勝の地として、大きな石標が建てられました。 
又、清綱公の「わたつみの神もほぐらしあゆちがたちたの浦なみ千代の声して」 の歌碑も立っております。
昭和四十八年文化財の法令が改定され、改めて名古屋市の旧「年魚市潟」展望地と 名勝指定されました。
名古屋市南区 白毫寺【年魚市潟】南区周辺の古墳時代の海岸線と明治の地形図(PDF)
topへ
鳥栖古墳 topへ
この古墳は、直径45メートル、高さ5メートル程の帆立貝式古墳です。社伝によると「和銅元年(708年)新羅の僧道行が熱田
神宮の草薙剣を盗み去ったとき、この事が帝に知れるのを恐れ、神剣を新しく作るよう鍛冶屋に命じた。そしてこの地で37日
修祓の上、熱田神宮へ奉納した。」といわれています。
topへ
医王寺(〒457-0006 愛知県名古屋市南区鳥栖1丁目6-24) topへ
「医王寺の歴史」
名古屋は、古く「那古野」と書く。戦国時代は東西両勢力の狭間で揺れた。
それを制して、天下布武を敷いた織田信長の家臣・山口新太郎(一説に山口明長)は、新屋敷に西城を構え、姉川合戦で活躍した
といわれる。この新屋敷西城跡に、医王寺が堂宇を構える。名古屋市「南区の歴史」によると、熱田の円通寺末『寛文村々覚書』
には「寺内年貢地、庚申堂地内前々除く」と記す。天正2年(1574)創建と伝える。熱田の円通寺は、弘仁年間(810~824)の創建。
開祖は三尺坊の道風を慕って師弟の義を結び、羽休の神号を授かり俗に「羽休三尺坊」と称す。一方、寺伝には元亀元年(1570)
開創と伝う。本尊の薬師如来は伝教大師作にして日本三薬師の一つで、姉川の合戦で傷ついた城兵が霊験を蒙って忽ち治癒して
より、人々の篤い信仰を集めた。以来、連綿と法灯を護持す。
 topへ
成道寺石仏(名古屋市Web) topへ
境内は鳥栖城跡と考えられ、この一角に城主成田公夫妻の墓碑と伝えられる石仏二体があります。その一体に「鳥住伝心浄本菴主」
「永正十二年(1515)乙亥正月十二日」と刻まれ、紀年銘としては市内最古のものです。
topへ
鶴里駅
鶴里駅(つるさとえき)は、愛知県名古屋市南区鯛取通3丁目にある、名古屋市営地下鉄桜通線の駅である。駅番号はS16。
topへ
南区 (名古屋市)(HP参照)   topへ
南区(みなみく)は、名古屋市を構成する16区のひとつである。
旧東海道(現在では愛知県道222号緑瑞穂線)沿いには、笠寺観音(笠覆寺)笠寺一里塚などの史跡が残る。
国道1号を境に、東側は笠寺台地とよばれる丘陵地。西側は山崎川および天白川に沿った平坦な地形で、海抜ゼロメートル地帯も
少なくない。昔は湿地帯が多く大人の身長をこえる芦などが群生し、呼びあいながら方向を確認していた名残の「呼続」なる地名
や「大磯」など、現在も古来の地理にちなんだ地名が残る。古代から海産業が中心だった。特に中世からは前浜塩と呼ばれる製塩業
が盛んに行われ、塩付街道を経て美濃や信濃などの内陸部へ運ばれていた。江戸時代に新田開拓が進むにつれ製塩業は衰退。
明治ごろには海苔や魚の養殖が盛んになり、愛知海苔(あゆち海苔)の中心生産地となる。愛知海苔は昭和の一時期には有明海を
超える産出量を誇っていた。しかし1959年の伊勢湾台風により地元産業は壊滅的な打撃を受け、海産業も衰退。それに代わって各種
工業が進出し、工場地帯を形勢することになる。

呼続神社(富部神社) (HP参照)topへ 富部神社(とべじんじゃ)は名古屋市南部の笠寺台地に鎮座いたしております。 古代、台地の周辺は海で「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれ、『万葉集』の中に 「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟 汐干にけらし鶴鳴き渡る」 「年魚市潟汐干にけらし知多の浦に 朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ」と詠まれています。 海を広範に眺めることのできる景勝の地であり、慶長年間、この地に清洲城主松平忠吉公は富部神社を創建いたしました。 桃山建築の姿を残す本殿は、1606年に建てられ、国の重要文化財に指定されている。祭文殿・廻廊そして享保12年(1727)作の山車 は名古屋市指定有形文化財に指定されています。約400年にわたり、この地を守り続けてきた富部神社は、現在も変わらぬ四季折々の 美しい姿で、地域の憩いの場として、また地域の守り神として人々の信仰を集めています。
笠寺一里塚(HP参照)   topへ 慶長9年(1604)、徳川幕府は、江戸橋を基点として、東海道をはじめ主要街道に一里塚を築きました。 36町を一里(約4キロメートル)とし、一里ごとに土を盛って塚を築き、その上にエノキやマツの木が植えられました一里塚は旅の目印 となったり、人足が荷物を運ぶとき運賃計算の目安にされたりしたようです。市内にはかつて9カ所に一里塚があったと言われていま すが、現存するのはこの「笠寺一里塚」だけです。 かつては一対の塚で、道を隔てた南側に大正時代までムクノキが植えられていました。土を盛った上に大きなエノキが根を張ってい ます。春には水仙、秋には曼珠紗華が加わり、昔の東海道の面影をしのばせています。
笠寺公園(pdf)(HP)   topへ 見晴台遺跡(見晴台考古資料館:1979年開館) 笠寺台地の東縁(標高10〜15メートル)に位置している。最古で約2万年前の旧石器時代の石器が出土しているほか、縄文時代の物 とされる土器片なども出土しているが、1940年(昭和16年)に銅鐸を模した「銅鐸形土製品」と呼ばれる土器片が出土したことから その名を知られるようになった。これは1937年(昭和12年)に名古屋市西区の西志賀貝塚に次いで日本で2例目として学会に報告さ れた。隣接する桜田貝塚では1917年(大正6年)から翌年にかけて弥生時代の魚形土器が見つかっていたため、当時からこの地域の 遺跡については考古学者の注目を集めていたという。戦後、公園整備計画が持ち上がり、それに伴い1964年(昭和39年)に調査が 行われた結果、弥生時代に作られた東西約120メートル、南北約200メートル、幅・深さとも約4メートルの環濠に囲まれた集落跡 検出された。この集落自体は200年ほど続いたと考えられているが、朝日遺跡など名古屋市周辺の複数の環濠集落で環濠が埋められ ていくのに時期を合わせるように見晴台でも環濠が埋められており、この地域での勢力の統一が行われたことを示唆する説がある。 見晴台からは現在までに200軒以上の竪穴住居跡が重なりあった形で検出されているが、古墳時代の遺構はほとんど検出されていな い。平安時代以降には集落が存在したほか笠寺観音の寺領となった時期などもあり、平安時代から室町時代にかけての陶器などが 出土している。近代になってからは太平洋戦争時に高射砲6基が設置され、その内2基分の土台などが残されている。 公園内には、金さん桜・銀さん桜があり、春にはかわいらしい花が咲く。 topへ
笠寺観音(wikipedia)   topへ 笠覆寺(りゅうふくじ)は、愛知県名古屋市南区笠寺町にある真言宗智山派の寺院。山号は天林山。一般には笠寺観音(かさでら かんのん)の通称で知られる。尾張四観音の一で、あわせてなごや七福神の恵比須を祀る。 公式ホームページ topへ
東光院
菅原道真の肖像画を所蔵。又、宮本武蔵がこの地に滞在したと伝えられており、肖像画、自作の書、木刀を所蔵している。
呼続神社(富部神社) (HP参照)topへ
富部神社(とべじんじゃ)は名古屋市南部の笠寺台地に鎮座いたしております。
古代、台地の周辺は海で「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれ、『万葉集』の中に「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟 汐干に
けらし鶴鳴き渡る」「年魚市潟汐干にけらし知多の浦に 朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ」と詠まれています。
海を広範に眺めることのできる景勝の地であり、慶長年間、この地に清洲城主松平忠吉公は富部神社を創建いたしました。
桃山建築の姿を残す本殿は、1606年に建てられ、国の重要文化財に指定されている。
祭文殿・廻廊そして享保12年(1727)作の山車は名古屋市指定有形文化財に指定されています。
約400年にわたり、この地を守り続けてきた富部神社は、現在も変わらぬ四季折々の美しい姿で、地域の憩いの場として、また地域
の守り神として人々の信仰を集めています。
topへ
長楽寺
元は寛蔵寺といい、立木観音堂の十一面観世音菩薩は、1921年に枯れた境内の大松を夢のお告げにより菩薩に建立した
もの。また、動物霊園を開いており、盲導犬慰霊碑には、主人を守って片足を失った名犬サーブたちが眠っている。
呼続公園    topへ
名古屋市南区の北東部にある呼読公園は広さ4.35haと、区を代表する公園です。
公園を中心とした一帯は曽池遺跡と呼ばれていて、竪穴式住居の遺構や土器類の出土からは、この地の歴史を学べます。
出土品の中には船の一部や漁具なども見られ、かつてこの地が海であったことがわかります。
呼続公園は、市道から少し南に入った住宅地の中にあります。
昭和29年の開園以来、地元の方の憩いの場にもなっていて、晴れた日にはのんびり過ごす人々の姿が見られます。
富部神社や長楽寺と隣接していることから、参拝帰りに公園でくつろぐのもおすすめです。

topへ

全員集合(八剣社)       topへ


戻る  (コースマップ)参照 詳細拡大 topへ