友歩会例会史跡巡り・岐阜編Part18   
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 (令和8(2026)年4月4日(土)天気:曇り・雨)(歩数:20,681歩)参加者27名)


午前9時、(★笠松町HP笠松駅八幡社(出発式)→陣屋・県庁跡歴史未来館→(鮎鮨街道碑>高嶋家前>杉山邸>杉山邸の改装土蔵)
>土蔵内の写真展>>木戸跡)→笠松湊公園→川湊石畳→蓮台寺遺跡(白鬚神社)→信長・道三別れの地(白髭神社内解説)
→東流廃寺(蓮台寺)塔礎石(白髭神社内)→イオン→柳津駅道の駅柳津(昼食 4.4は雨天の為ここで終了)→境川
佐波八幡神社・旧佐波小学校跡・原三渓生家山田省三郎碑→観音寺→西方寺(解散式)→南宿駅(ゴール・11km)→帰宅
(解説) コースマップ114のPDF 友歩会鎌倉街道 笠松湊 歴史未来館 三溪園 全員集合

友歩会例会史跡巡りPart3(2010.10.2)参照 全員集合(道の駅柳津)(昼食 4.4は雨天の為ここで終了


笠松駅

八幡社

八幡社(受付)r811417

八幡社(出発式)r811418

八幡社(ウオーミングアップ)19

陣屋・県庁跡(石碑)r811420

陣屋・県庁跡岐阜県羽島郡笠松町県町67-1)

笠松町役場(非核平和都市宣言の看板)24
歴史未来館(解説)
笠松町歴史未来館
r811428

歴史未来館笠松湊と石畳の模型)30

歴史未来館(鮎鮨荷)36

笠松歴史民俗資料館展示の大船(2010年) kh006

友歩会例会史跡巡りPart3(2010.10.2)参照

歴史未来館(美濃縞)35

高嶋家前にある鮎鮨街道の標識(2010年)
高嶋家前にある案内板拡大はここ)

高嶋家は鮎鮨街道の宿次(荷の受渡)を務めた
問屋場で古文書が残っている(高嶋:左4人目)(2010年)

杉山醸造店の暖簾osusi114

杉山邸2Fから見た改修土蔵osusi121(2010年)

杉山邸土蔵改修(2010/03)028

土蔵内で可児幸彦写真展開催029

杉山邸(2010年)

笠松湊公園11:09

木曽川笠松渡船場跡

笠松港の石畳(ここを鮎鮨荷が通った)

笠松湊51

水天宮跡55

白鬚神社r811460

白鬚神社64

白鬚神社

蓮台寺塔礎石(017参照)(拡大解説)044

別院内蓮台寺(東流廃寺)塔礎石017
(044参照)

蓮台寺遺跡(白鬚神社内)042 (解説)
信長と道三がここで最後に別れた

柳津駅(2026.4.4 ショートコースで柳津駅から帰った)

道の駅柳津

佐波八幡神社

旧佐波小学校跡

原三渓生家

山田省三郎碑(拡大参照)

観音寺(拡大参照)

西方寺(解散式)

南宿駅
全員集合(道の駅柳津)(Tさん) Top
「解説」                ★Top
鮎鮨街道:街道は「岐阜−稲沢」が妥当と高橋さん
はその著「鮎鮨街道いま昔」で指摘している。
長良川の鮎が「お鮨所」で加工されて、江戸城まで
46宿、5日間かけてリレー搬送された。江戸に着く
頃ちょうど食べ頃となるという。古文書ではこのリレ
ーを「縦立」「宿次」と記述している。鮎鮨荷は、
ひと夏で「三荷で10回」が定型とされ、幕末まで
続いた。
街道の略図は、「鮎鮨街道いま昔」に詳しい。
「杉山邸」     ★Top
明治24年「濃尾大震災」直後に建造された町屋風
造りで杉山栓二郎さんの邸宅。
2006年国の登録文化財。1Fに7部屋2Fに5部屋
ある。敷地面積530u。総床面積230u。「笠松を
語り継ぐ会」(代表:高橋恒美さん)が邸宅を管理
運営している。
毎月第4土日に一般開放。平成21年9月笠松町
に譲渡された。
笠松の町おこしの拠点として歴史民俗資料館と
ともに今後の活躍が期待される。
なお、土蔵が平成22年3月に修復されている。

改修前
 木曽川笠松湊渡船場跡・石畳  Topへ

笠松は、陣屋や県庁が置かれた所であったことから
交通の要であり、木曽川は荷物を運ぶなど、大切な
川でした。湊で荷揚げされた荷物は、大八車で各地
に運ばれました。
その大八車の車輪が食い込まないように、大きな石
を敷いて地面を固くしたものが石畳です。
現在の石畳は明治11年(1878)、明治天皇
巡幸の折、改修工事で山石を敷いたものと伝えられ
ており、岐阜県の重要文化財に指定されています。
美濃郡代笠松陣屋・県庁跡   ★Top
江戸時代、笠松には陣屋(役所)が置かれ、年貢
の徴収、民治、裁判などの仕事をしていました。 
陣屋は、明治政府の誕生とともに廃止され、慶応
4年(1868)に美濃国の一部が笠松県となった
際に、陣屋の跡に笠松県庁が置かれました。明治
4年(1871)岐阜県庁となりますが、明治6年
に県庁舎が岐阜市に移るまでは、ここで様々な仕事
が行われ、笠松は岐阜県の中心地でした。
また、当時、知事官舎として使われていた建物
が現在養老公園内にあり、「孝子館」として、
町民の皆さんに幅広く利用されています。
★解説参照
郡役所跡(新町) Topへ

明治12年(1879)郡役所が県下で16箇所に
置かれ、笠松村には羽栗・中島両郡の郡役所が置か
れましたが、明治24年(1891)の濃尾震災で
燃えてしまいましたが、同27年新町に移転改築さ
れました。
その後、羽栗・中島郡役所は新郡制が施行されると
羽島郡役所となり、大正15年(1926)に廃止
されました。
東流廃寺(蓮台寺)の塔礎石(白鬚神社内)
昭和32年(1957)、長池東流地区で土地改良
工事を行っていた時、土中から礎石や瓦等が発見さ
れました。礎石には二重の穴があいていて、その大
きさから塔の高さは30メートル近くあったのでは
ないかと推測されます。
このお寺は、出土した場所から東流廃寺と呼ばれ、
いくつかの建物や門などがあったと思われます。
この礎石は2つに割られ、西宮町の東別院と田代の
白鬚神社に残されています。Top
道三・信長両将別れの地(白鬚神社内)Topへ

斉藤道三は、娘を信長の嫁にしています。
天文22年(1553)富田(愛知県尾西市)の
正徳寺で親子対面し、両将は帰路を共にし、田代
の八幡神社(白鬚神社合祀)で別れの儀式をした
後、道三は稲葉山(金華山)の居城に、信長は
那古野(名古屋市)の居城に引き揚げました。

鎌倉街道 中世において鎌倉から関東諸国をとおり信濃や 越後、そして陸奥などの地方を結ぶ交通路で、 いわゆる鎌倉幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と 馳せ参じた道であり、 鎌倉時代から戦国時代 までの関東武士の栄枯衰退の歴史を物語る道で ある。しかし実態としては詳細な道筋や姿は あきらかでなく「幻の道」と呼ばれている。
道の駅柳津交流センター(HP) Topへ
環境に優しく自然あふれる都市型道の駅
「道の駅 柳津」は、岐阜市と名神高速道路岐阜羽島
ICやJR東海道新幹線岐阜羽島駅を結ぶ幹線道路
(主要地方道岐阜・南濃線)沿線に立地し、岐阜市の
南玄関に位置する「都市型 道の駅」です。境川が育む
豊かな自然を活用し、憩いと安らぎの空間を提供する
ほか、地域の魅力を発信し、人・物・情報の交流拠点
として機能しています。
Top

境川(wikipedia)Topへ 境川は、木曽川水系の一級河川。岐阜県各務原市・岐阜 市・羽島郡岐南町・羽島郡笠松町・羽島市を流れる。 長良川・揖斐川を経て伊勢湾に至る木曽川の3次支川

「笠松町」(wikipedia) Topへ
岐阜県南部の濃尾平野にある町で、木曽川右岸の帯状に伸びる低湿地に位置する[1](対岸は愛知県)。かつては頻繁に水害に悩まされ、
松枝輪中という輪中が発達していた。水害に関する多くの史跡が残り、古くから木曽川を通じて岐阜と名古屋を結ぶ重要な地であった。
「歴史」
古くは尾張国であったが、1586年(天正14年)の木曽川の氾濫により木曽川の位置が変わり、美濃国に移り、尾張国葉栗郡から美濃国
羽栗郡となった。港町でもあり、岐阜から名古屋へ岐阜街道が中心部を通っていた。かつての地名は「傘町」。
1662年(寛文2年)、正式に美濃郡代の陣屋を傘町に移転したさいに、「傘町」を「笠松」に改名したという(1669年の説もある)。
江戸時代は幕府直轄地として笠松陣屋が置かれ、江戸時代の終わりには笠松県の県庁、明治時代の初期には岐阜県庁が置かれており、
県庁が岐阜市に移るまでは、岐阜県の中心となっていた。Topへ
笠松駅 (wikipedia)   Topへ
「概要」
快速特急停車駅で、日中は名古屋本線の特急と竹鼻線の始発列車が当駅で接続する。名鉄岐阜から竹鼻線へ直通
する急行は当駅から普通になる。朝夕の一部には全区間を普通で走る名鉄岐阜 - 羽島市役所前・新羽島間の列車
が設定されている。2001年までは竹鼻線・羽島線内でも通過運転をする急行が設定されていた。
かつては当駅始発の名古屋方面行きの急行が1本設定されていた。
竹鼻線・羽島線の列車は大半が当駅で折り返している。名古屋本線には当駅で折り返す列車は存在せず、全て名鉄
岐阜駅まで運転されている。
ミュースカイは全て当駅を通過する。笠松競馬開催日でも臨時停車は行われない。
名古屋本線では快速特急停車駅であるが待避線は存在しない。急カーブの途中にあるため設置が困難であり列車
待避は新木曽川駅または岐南駅で行われている。
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八幡社 (wikipedia)    Topへ
「概略」
創建時期は不明。神社に伝わる釈迦如来像を表した金属製の懸仏の裏には、土岐氏が奉納した旨が墨書されており、
室町時代以前には存在したと推測されている。
江戸時代の初期、美濃国羽栗郡傘町(現・笠松町)に赴任した岡田善政が崇敬して以来、笠松陣屋に赴任した歴代の
美濃郡代の保護を受けている。
1868年(明治元年)、美濃国の旧幕領、旗本領に笠松県が置かれ、県庁舎が笠松陣屋に置かれる。そのころに八幡神社
は笠松県の県社となるが、1871年(明治4年)、廃藩置県により美濃国が岐阜県となると、郷社に変更されている。
1953年(昭和28年)4月10日、岐阜県神社庁より県神社庁長参向指定神社(金幣社)の指定(金26号)を受ける。
例祭は8月14・15日であったが、明治時代に4月に変更され、現在は笠松春まつりとして、産霊神社の例祭と同じ日に
行われている。この笠松春まつりでは、奴行列(岐阜県指定無形民俗文化財)が奉納されるほか、山車が曳かれる。
笠松町指定文化財として、懸仏のほか、1630年(寛永7年)加納城城主奥平忠隆が奉納した時鐘、数振りの刀がある。
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陣屋(wikipedia) Topへ
津田陣屋(岐阜県羽島郡笠松町) - 美濃国羽島郡にあった旗本津田氏の陣屋。旗本津田代官屋敷とも呼ばれる。
現在は門と土塀が残っており、屋敷は岐阜県揖斐川町の上善明寺に移築され庫裏となっている。
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歴史未来館(笠松町HP)    ★Topへ
笠松は、寛文2年(1662)から幕末まで、江戸幕府の直轄地として郡代陣屋が置かれ、幕府支配の重要な位置にあり
ました。明治維新後には、明治6年(1873)まで笠松県庁・岐阜県庁が置かれた政治の中心地でもありました。
 江戸時代からは木曽川の舟運の中継地として栄え、美濃・飛騨はもとより全国の物資の集積地として賑わいました。
また、美濃と尾張を結ぶ名古屋街道の往来人馬問屋を置く交通の要衝として発展してきました。
 川湊を中心に商業で栄える町・綿織物業で栄える町でしたが、交通網や社会の変化によって大きく変貌しました。
現在は航空宇宙産業に携わる企業もあり、未来へのびゆく町として期待されます。
 笠松町歴史未来館1階では、笠松町の歴史と文化・古くから伝わる伝統芸能や民具を後世に伝える展示を、2階では
企業・学校などの協力を得て、未来志向の展示を行っています。 Topへ
笠松湊 (wikipedia) Topへ
笠松湊とは岐阜県羽島郡笠松町港町にあった河川港である。木曽川水運の中継地点として発展していた。現在は笠松
みなと公園として整備されており、川灯台が建てられている。港までの道には河原石を敷き詰めた石畳が今でも残って
いる。 笠松渡船場跡石畳は県指定史跡(昭和42年11月)
「概要」
1662年(寛文2年)に美濃国奉行(美濃郡代)名取半左衛門長知が郡代陣屋を移し、傘町から笠松に改称してから約200年
にわたり、笠松陣屋を中心に、徳川幕府直轄地支配や治水行政の中心地、地方物資の集散地となった。 木曽川水運の拠点
としても発展し、下流の桑名、四日市、名古屋からは海産物や塩、衣類などが運ばれ、上流からは年貢米や材木、薪炭など
が運ばれた。また宝江渡船の美濃側の船着き場でもあった。
かつては問屋や倉庫、船宿、料亭などが立ち並び木曽川随一の繁栄を誇っていた。
1885年(明治18年)には笠松湊へ寄港する船は1日平均38艘、1年間に6,440艘あまりで、1892年(明治25年)ごろまでは
桑名からの蒸気船が1日2往復していた。
大正から昭和初期には、ポンポン船と呼ばれる大型発動機船の時代となったが、近年鉄道の普及、自動車の発達により
笠松港の役割は終わった。Topへ
柳津駅(wikipedia)Topへ
柳津駅(やないづえき)は、岐阜県岐阜市柳津町梅松一丁目にある、名古屋鉄道竹鼻線の駅である。駅番号はTH02。
道の駅柳津(wikipedia) Topへ
道の駅柳津は、岐阜県岐阜市柳津町仙右城(せんねしろ)にある岐阜県道1号岐阜南濃線の道の駅である。
「概要」
2005年(平成17年)[3]2月19日、当時の柳津町が境川の堤防上に開駅。岐阜市内で唯一の道の駅である。当初は東エリアのみ
であったが、2006年(平成18年)12月19日に西エリアを増設する。東西エリアは鶉大橋の下を地下通路で結んでいる。
2022年(令和4年)4月1日に、同一の建物内にある情報館および物販館をリニューアルしオープンした。Topへ
全員集合(道の駅柳津)2026.4.4 (昼食 4.4は雨天の為ここで終了) Topへ
鎌倉街道(wikipedia) 鎌倉街道の説明(WEB)                    Topへ

古道としての「鎌倉街道」とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網である。鎌倉幕府の御家人
が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道でもある。
鎌倉政庁自らの記録である吾妻鏡に、鎌倉街道という言葉は見られない。
あたかも鎌倉政庁により上道、中道、下道という名の「鎌倉街道」を整備していたかのように思われがちだが、
当時の記録にはそのような名前の道は見られず、また枝道なども鎌倉街道と呼ばれ各地にその名が残っている
ものの、実際のところ「鎌倉街道」の由緒については不明である。

しかし、「鎌倉との往還道」という意味では、以下のような記述が散見される。

1.京や駿河・遠江と鎌倉の間、そして鎌倉よりさらに下総・常陸に向かう道として東海道
2.鎌倉から武蔵東部や下野に向かう中路
3.さらに中路を経て奥州に向かう奥大道
4.鎌倉から武蔵西部や上州に向かう下道
5.下道からさらに信濃・越後に向かう北陸道
これらのうち、「東海道」と「北陸道」は道路の意味よりむしろ地方の名称、すなわち律令制五畿七道の一道
の意味合いで用いられているとも解される上、「中路」はもともと官道の規格を表す表現として用いられて
きたものでもある。
一般的な解釈として、鎌倉から武蔵西部を経て上州に向かう道路が「上道」とされているが、吾妻鏡の中に
「上道」の記述は見当たらず、むしろ鎌倉から上州を経て北陸道へ至る道を「下道」としている。

鎌倉街道の特徴 
なるべく平坦な直線距離を取る。
見晴らしがいいように丘陵や台地、微高地の尾根を通る。
尾根道の場合、掘割状の凹型の断面となる。幅は騎馬が2列並んで通れる程度で決して広くはない。
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佐波八幡神社・旧佐波小学校跡・原三渓生家  Topへ
佐波八幡神社
所在地: 〒501-6121 岐阜県岐阜市柳津町下佐波1丁目41
由緒由来  
創立年月は不詳なるも奥村家蒼祖の建立にして、文化三年以来氏子の総意により、社殿の改築をなし、殊に境内には近郷
希に見る老樹ありて、神域の尊厳を保ち崇敬厚し。

旧佐波小学校跡(WEB参照)  Topへ
所在地:〒501-6115 岐阜県岐阜市柳津町丸野1-1
旧佐波小学校(岐阜県羽島郡柳津町、現・岐阜市)は、1960年に柳津小学校と統合し廃校となった歴史ある学校です。
跡地は2020年時点で佐波保育所となっており、地域に親しまれる場所となっています。かつては明治初期の建物が残って
いましたが、震災後に再建された歴史も持ちます。
本校は、岐阜県の郷土の偉人でもある原三渓の出身地として、開設当時より、教育には熱心な風土が地域にあります。
跡地の状況: 佐波保育所が建設され、敷地内には「原三溪顕彰碑」や旧校の門柱跡が残されている。Topへ
「原三溪顕彰碑」(wikipedia参照)
原 富太郎:慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日)は、日本の実業家、美術品収集家、茶人。
号は三溪。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市柳津町佐波)出身。
岐阜県図書館解説web参照 「解説」 Topへ
横浜市中区本牧にある三渓園は、横浜を代表する観光地の一つです。
西の桂離宮、東の三渓園と並び称される名園で、園内には文化的古建築物を各地から譲り受けて移築した国の重要文化財が数多くあります。
また、建築物のみならず三渓が蒐集した美術品や、自ら描いた日本画等も展示されています。
三渓園の名は実業家原富太郎の号「三渓」によります。
「原家へ入籍」
原三渓(本名・富太郎)は慶応4(1868)年8月23日、厚見郡佐波村(現柳津町佐波)に青木久衛・妻琴の長男として生まれました。
幼少の頃より勉強が好きで、小学校を卒業すると大垣の儒者野村藤陰の鶏鳴塾で漢籍を学びます。17歳で京都の草場船山の門下生となり、
その後跡見花蹊を頼って上京。東京専門学校(早稲田大学の前身)で政治・経済を学ぶ傍ら、花蹊が開いている跡見女学校で教鞭をとります。
そこで、のちの妻となる横浜の生糸豪商原善三郎の孫娘・原屋寿(やす)と出会いました。二人は相思相愛の仲となり、結婚を考えるように
なります。双方共に跡取りという難題がありましたが、周囲の理解を得て明治25年結婚し、原家に入籍しました。
「実業家として」
明治32年、善三郎の死去により家業を継ぐことになります。三渓は原商店を合名会社に改組し、生糸業界では「世界のハラ」と呼ばれ事業を
発展させました。
大正4年、帝国蚕糸社長、大正9年には横浜興業銀行頭取に就任します。 実業家として成功した三渓ですが、一方で日本美術に深い理解と興味
を示しました。
明治39年には整備をすすめていた三渓園を一般市民に開放。当時としては画期的なことでした。また、新鋭画家の育成に力を入れ、援助を受け
た安田靫彦、今村紫紅はのちに文展で受賞しています。
大正時代、日本美術創造の中心地となっていた三渓園には、小林古径、前田青邨、日本美術院の重鎮・下村観山などが集まり、また美術家のみ
ならず、インドの詩人タゴールも日本滞在時には、三渓園に迎えています。
「晩年の三渓」
大正12年関東大震災が起こり、横浜は大きな打撃を被ります。
三渓は横浜市復興会会長に就任し、身を挺してその復興に尽力しました。
関東大震災以降、三渓は美術品の蒐集をやめてしまいます。そして、自ら書画を描くことが多くなりました。昭和5年には今まで描いてきたもの
を「三渓画集」として自費出版しました。
昭和に入ると生糸は人絹に押され、生糸業界の最盛期は終わりを告げ、事業が急降下していきました。 
晩年の三渓はふるさと岐阜の料亭・水琴亭(岐阜市)を頻繁に訪れたり、日本の各地を旅しました。
昭和12年長男が急逝。以降健康を損ね、昭和14年8月16日、71歳の生涯を閉じました。Topへ
横浜市中区本牧にある三渓園
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三溪園(wikipedia)は、神奈川県横浜市中区本牧三之谷にある庭園。17.5haの敷地に17棟の日本建築が
配置されている。実業家で茶人の原富太郎によって1906年に造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が
運営している。名称の三溪園は原の号である三溪から。2006年11月17日に国の名勝に指定された。
財団公式サイトでは旧字体の「溪」を使うが、横浜市公式サイトなど新字体で三渓園と表記することも多い。
「概要」
三溪園は、国の重要文化財建造物10件12棟(移築元:京都府5棟、和歌山県3棟、神奈川県2棟、岐阜県1棟、
東京都1棟)、横浜市指定有形文化財建造物3棟を含め、17棟の建築物を有する。三溪園の土地は、原富太郎
三渓の養祖父である原善三郎が1868年(明治元年)頃に購入したものである。単に各地の建物を寄せ集めた
だけではなく、広大な敷地の起伏を生かし、庭園との調和を考慮した配置になっている。園内にある国の重要
文化財建造物10件12棟は、全て京都など他都市から移築した古建築である。移築自体に本来の価値に対する
評価を投げかける意見もあるが、中には現地で荒廃していた建築物を修復して移築したものも含まれている。
原富太郎は岐阜県出身の実業家で、横浜の原商店に養子として入り、生糸貿易で財を成した。原は事業のかた
わら仏画、茶道具などの古美術に関心を持って収集した。平安時代仏画の代表作である『孔雀明王像』
(国宝、東京国立博物館蔵)をはじめ、国宝級の美術品を多数所蔵し、日本の美術コレクターとしては、
益田孝(鈍翁)と並び称される存在であった。彼は古美術品のみならず、室町時代の燈明寺にあった三重塔を
はじめとする京都ほか各地の古建築を購入して移築。庭園も含めて整備を進めていった。
1906年(明治39年)5月1日に市民へ公開し、その後も建造物の移築は続けられた。
1923年の関東大震災と太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月10日の横浜空襲で被害を受け、一部の建造物を
失った。なお、旧燈明寺本堂、合掌造の旧矢箆原(やのはら)家住宅などは第二次世界大戦後に三溪園へ移築
したものである。また大戦中に抑留された連合国側の民間人が、三渓園で抑留所同士の野球の交流戦を行って
いる。原富太郎の古美術コレクションは戦後の混乱期に散逸し、建造物だけがかろうじて残った。
1953年(昭和28年)に財団法人三溪園保勝会が設立され、再び庭園の整備を行い、今日に至っている。
1970年(昭和45年)1月には本牧海岸の埋め立てに伴い、海側に南門が設置された。
1989年(平成元年)9月には内苑の御門そばに、原の業績に関する資料や原自筆の書画・原にゆかりのある作家
の作品等を展示する三溪記念館が開館した。2000年(平成12年)には、会議、パーティーなどにも利用できる、
鶴翔閣(かくしょうかく、旧原家住宅)を復元した。この建物は横浜市指定有形文化財に指定されている。
毎年、観梅会、観桜の夕べ、蛍の夕べなどの季節に応じた催物を開催している。最近、梅の木は少なくなって
おり、観梅会はないが、中国からの珍しい「臥竜梅」と「緑萼梅」は数本ある。Topへ
山田省三郎碑(木曽川上流河川事務所・川の記念碑) Topへ
山田省三郎は少年の頃から治水に熱心で、19歳の時には加納藩主に治水の策を建じ堤防修策の急務を説いた。明治11年には有志
の人々と治水共同社を設立し、木曽川下流改修の大事業の遂行に貢献した。明治14年には加納輪中水利士功会の議員となり、
長良川上流改修、境川改修に尽力した。
(wikipedia参照)
山田 省三郎:1843年1月5日(天保13年12月5日)- 1916年(大正5年)3月8日[1])は日本の政治家。
「概要」
衆議院議員。現在の東海地方を代表する木曽三川の水害対策(木曽三川分流工事)に翻弄し、生涯を治水に捧げた人物。略歴」
1842年(天保13年) - 美濃国稲葉郡佐波村(現岐阜市佐波)に生まれる。
1879年(明治12年) - 岐阜県会議員に当選。
1890年(皇紀2550年)- 第1回衆議院議員総選挙に於いて岐阜県第一区から立候補するも、3位落選に終わる
1902年(明治35年) - 衆議院議員に当選。連続3期に渡って務める。
1916年(大正5年) - 75歳で病没。
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