友歩会第65回・名古屋編Part8(下見)&例会レポート (詳細・拡大)
下見・H28(2016).10.15(土)&例会・H28.12.3(土)
天気:下見:(6名)晴れ歩数:30,850歩、例会:晴れ(40名程)歩数:32,894歩
コース:地下鉄一社駅(9:00)→西一社中央公園9:15発→神藏寺→神丘公園→牧野池→ →やまもも→高鉾神社→明徳寺→貴船神社→上社駅★(コースマップ)★友歩会(HP)★名古屋市 ★名東区 ★柴田勝家について(略歴) ★全員集合
![]() 地下鉄一社駅(2016.10.15)001 |
![]() 名東区史蹟散策路・柴田勝家コース案内 65n002 |
![]() 一社中央公園(受付)65n3002 |
![]() 一社中央公園を出る 65n003 |
![]() 貴船神社へ65n004 |
![]() 神蔵寺へ65n005 |
![]() 「神蔵寺」本堂再建の碑 007 柴田源六源勝重により一色城内(東)に創建された。 |
![]() 一色城主柴田勝重の墓 (神蔵寺内)65n011 勝重は、柴田勝家の祖父(または曾祖父)と伝わる。 |
![]() 黄葉の植田川を歩く 014 |
![]() 植田川の橋(左上は長久手市調整池、右下は天白川)017 |
![]() 神丘公園(デッチョ池)019 |
![]() 神丘公園map (右下は牧野池・左は東山公園) |
![]() 牧野池024 |
![]() 牧野ヶ池緑地へ(HP) |
![]() 勝野太郎左衛門公徳碑 |
![]() 牧野ヶ池緑地(昼食) 031 ◎牧野池(友歩会第65回例会案内参照) 面積約17ヘクタール、周囲約3キロメートルの愛知県第3位 の大池。正保3年(1646年)尾張藩の郡奉行勝野太郎左衛門 が当地の窮状を知り、数年間を費やし完成したもの。 池の西方池畔の丘陵に勝野太郎左衛門の偉業をたたえて 大正8年に建てられた「忠於民」と記された公徳碑がある。 また、碑の右方に「山庵全鉄禅定門」と刻んだ太郎 左衛門の墓碑がある。 隣接する牧野ヶ池緑地は新緑・紅葉を楽しむことが でき、ゴルフ場・野球場・児童園が整備されている。 |
![]() 牧野池景勝地の標識034 |
![]() 牧野池ふれあいプラザ036 |
![]() ヤマモモの巨古木65n3012 |
![]() ヤマモモの巨古木038 |
![]() 高牟神社(下図参照)へ043 ★topへ |
![]() 高牟神社 |
![]() 高牟神社の由来を説明65n3022 |
![]() 高牟神社044 |
![]() 石垣の上にある明徳寺へ 65n046 |
![]() 明徳寺map |
![]() 下社城祉の標識 |
![]() 貴船神社へ052 |
![]() 貴船神社054 |
![]() 上社公園へ060 |
![]() 流公園(クールダウン後に解散式) 3030 |
![]() 地下鉄上社駅062 |
★名東区(HP) ★wikipedia参照 名古屋市東部丘陵地帯に広がる閑静な新興住宅地。かつては、多くの灌漑用ため池が点在し、畑、稲作の他、養蚕や 葉煙草も栽培する田園地帯であったが、昭和30年代後半から急速に宅地造成が進んだ。 社宅や質の良いマンション・アパートが多く、比較的地元色が薄い地域であるため地元の東海地方出身者のみならず 他地方からの新住民や転勤者家庭、学生なども多く在住している。そのため明るい雰囲気のカフェ・レストランなど も多い。 名東区は尾張丘陵の南西部に位置する。区の東南部にかけて大規模な里山も残っており、稀にタヌキなどが出没する 事もある。尾張丘陵は、濃尾平野の東側、瀬戸市から大府市にかけて広がり、標高は60-120mと起伏の少ない緩やか な丘陵地帯で、湧水湿地が分布している。 新生代第三紀新第三紀鮮新世に、濃尾平野域の東縁に当たる猿投山地から知多半島一帯の隆起に伴い形成された。 古木曽川が流れ込む東海湖と呼ばれる淡水湖に堆積していた砂層、泥層、砂礫層、亜炭層に覆われている。歴史的に 東隣に位置する長久手市や日進市との繋がりが深く、名東区内から東部丘陵地帯への交通の便が整備されている事も あり、日常生活において休日などは長久手や日進まで行楽のために出向く住民も少なくない。 名東区内においては、猪高緑地内の長久手市との境界にある根岳(標高108.6m)が最高位となる。 区北部には矢田川、香流川が東から西へと流れ、植田川が区東部の猪高緑地を水源として中央部を経て南端へと流れ ている。そして区内には池が点在していた。 |
★地下鉄一社駅(H19) 一社駅は、愛知県名古屋市名東区一社2丁目にある、名古屋市営地下鉄東山線の駅である。 駅番号はH19。東山線は、当駅の東側より地下を抜け、終点の藤が丘までは高架となる |
★西一社中央公園 ★topへ 住宅地の中の色々な施設のそろった広々とした公園。道路沿いの並木をはじめ、多くの木々で囲まれ、また公園内も ゆったりとした植栽帯があり、緑豊かです。野球のできる大きなグラウンドと遊具広場、草地に囲まれた自由な広場や 施設を取り巻く散策路からなっており、自由な利用が楽しめます。 |
★名東区史蹟散策路 ★topへ (1)柴田勝家コース 地下鉄一社駅から明徳寺を経て、明徳牧野緑道を北上し、猪高村役場跡まで行き、地下鉄上社駅までのコースです。(2)高針・牧の池コース 昔の高針村の中心部を通るコースで、緑豊かで古くからの町並みに囲まれた神社・寺院が多くあります。 また、広大な牧野池をめぐり四季折々の自然の変化を楽しんでいただけます。★topへ |
★神藏寺(HP参照) ★topへ 龍華山神蔵寺(りゅうげざんじんぞうじ)は、名東区一社3丁目にある。本尊は、聖観世音菩薩。 神蔵寺は、文亀元年(1501)、足利九代将軍義尚(よしひさ)の家臣・柴田源六源勝重(かつしげ/開基)により、 一色城内(東)に創建された。 草創開山は、雲岫麟棟(うんしゅうりんとう)和尚で、春日井郡大草村(小牧市大草)の曹洞宗大叢(草)山福厳寺(ふくごんじ /1476年創建/毎年12月に行なわれる秋葉三尺坊の大祭での火渡り神事が有名)より招請した。 勝重は、柴田勝家の祖父(または曾祖父)と伝わり、文亀三年(1503)七月二日没した。戒名は、霊源院殿天信了運大居士。 天正十二年(1584)四月、長久手合戦で一色城は焼失、神蔵寺も兵火に罹(かか)った(焼けてはいない)。 小牧においては、福厳寺諸堂が、戦の陣地を築くために秀吉軍によって破壊された為、末寺の~蔵寺堂宇を解体・移築した (「福厳寺記」による)。その為、~蔵寺は廃寺同然となった。★topへ |
★神丘公園(Map) ★topへ |
★牧野池(HP参照) 牧野ヶ池緑地は、名古屋市名東区にあり、約150haにおよぶ都会のオアシスとして親しまれている都市公園です。青い空と緑豊か な木々がとりまく「牧野池」を背景に散歩しながらの森林浴などをお楽しみいただけます。 竹林がとても美しく、心安らぐ日本の風景に出会うこともできます。★topへ |
★名東区の保存樹・やまもも(★名古屋市の保存樹・保存樹木について)(名古屋市内4個所指定のうちの1つ) |
★高鉾神社 (★また、こちらのHPも参照:棒の手奉納が詳しい) ★topへ 【延喜式神名帳】高牟神社 尾張国 愛智郡鎮座 【現社名】高牟神社 【住所】名古屋市名東区猪高町高針字比島 103 【祭神】応神天皇 【例祭】10月15日 秋季例大祭 【社格】旧村社 【由緒】由緒不詳 昭和25年に高牟神社と改称 【祭祀】江戸時代は「八幡社」と称していた 【社殿】本殿八幡造 幣殿・渡殿・拝殿・敬徳殿 【境内社】神明社・白山神社・山神社 創立年代 不詳なるも元禄15年社地覚え書きに八幡宮1社東西134間、南北84間とある。 御祭神 応神天皇を祀る八幡の神なり産霊神(むすび)を配祀する。 由緒 ・・・・(八幡の説明)・・・延喜年間には幣帛共進の延喜式内社として古くより地方の崇敬を集めて参りました。 (社頭掲示板) |
★明徳寺(wikipedia) ★topへ 明徳2年(1391年)に創建されたと伝わる。寛文2年(1662)、現在地に移転した。本堂は1860年頃に建立されたもの。 山門前右側に下社城址の石碑が建っており、柴田勝家の生誕地として知られている。 本尊は阿弥陀如来。寺宝として柴田勝家像を安置する。本堂左の十王堂には、市指定民俗文化財の木造の十王像がある。 ★柴田勝家について(HP参照) ★topへ 「柴田勝家」 「織田信秀時代」 大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる(異説あり)。 生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、 確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。 若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが信長継承の頃には 織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。 「織田信勝時代」 天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老 坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。 信勝を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、信勝の兄・織田信長の排除を試みたが、弘治2年(1556年)8月に 信長との戦いに敗れて剃髪し、信長に降伏した(稲生の戦い)。以後信長に心を寄せるようになり、弘治3年(1557年) に信勝が謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告したとされており、信勝は自刃に追いやられている (また1558年とも)。稲生の敗戦後、信勝が津々木蔵人ら新参の家臣を重用したため、見限ったといわれる (また一度信長に助命されたにも関わらず、再度信長を廃しようとした信勝の器量の小ささに限界を感じたためとも いわれる)。信勝の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。 「織田信長時代」 信勝の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信勝に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張 統一戦や美濃斎藤氏攻めではもちいられなかった。上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍 の4人の先鋒の内として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げた。信長とともに岐阜に引き 上げるが、永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本國寺の将軍・足利義昭襲撃(本圀寺の変)の際に信長と共に 再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。 元亀元年(1570年)1月、信長は義昭に将軍権限を奪う条書を認めさせ、3月には朝廷より天下静謐権を与えられる。 5月、六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶ったため、南岸確保に城付きの4人の武将の内として長光寺城 に配属され、下旬には戦闘となったが、佐久間信盛と共に撃退した。 元亀2年(1571年)、最初の長島攻めに参加するが戦局不利で攻撃をあきらめて退却する。勝家は殿を努めるが困難を 極め負傷し旗指物を奪われた。このため、氏家直元(卜全)に交代するがその氏家が戦死する(長島一向一揆)。 天正元年(1573年)2月、信長と将軍・義昭が対立して石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃 してこれらを陥落させた。そして4月、信長出陣のもとに信長に反抗的な上京に勝家が総司令官として放火させ焼き 払わせた。だがまたもや義昭は槙島城に立てこもるが勝家も加わった7万という総力戦で降伏させた。やがて義昭は 追放され室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として 近江、摂津など各地を転戦する。 9月の越前の朝倉義景攻めは、信長軍総動員となり滅ぼした。北近江の浅井長政攻めなどにも参加したが、秀吉が先鋒 を務めた。この直後に長島攻めに参加するが、またも退却する。 天正2年(1574年)、3回目の長島攻めに参加する。三手の内右翼を佐久間信盛と共に指揮する。砦を陥落させ城に 逃げ込ませて2月、兵糧攻めをしてたまらず和解に応じたところを銃撃し兵で襲撃、残った農民も柵を築いて2万人を 焼き殺した。天正3年(1575年)には高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加する。 朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣前波吉継を越前の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁が内乱に一向一揆を誘っ て前波を殺すが、一揆勢は富田にも襲いかかり、動乱の中で富田は家臣に射殺され越前は一揆持ちの国となっていた。 信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を平定。勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を 対上杉謙信最前線の司令官役として与えられた。この際、前田利家、佐々成政、不破光治らの与力を付けられ、 90年間一揆持ちだった加賀の平定を任され北陸方面軍総司令官となった。 天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が加賀にまで進出してきた。勝家は七尾城の救援に向かうが、間に合わずに 七尾城が陥落してしまい、撤退中に手取川で上杉謙信に襲撃されてしまった。。 しかし天正6年(1578年)に謙信 が死去すると、織田信忠軍の将・斎藤新五郎が越中中部から上杉軍を逐った。天正8年(1580年)3月、信長と本願寺 に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・ 越中境まで進めた。天正8年(1580年)11月、加賀一向一揆を制圧して、さらに能登・越中にも進出を果たした。 また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。 翌天正9年(1581年)2月28日、信長の京都馬揃えでは配下の前田利家ら越前衆を率いて、上洛し、参加した。 また、この頃から対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を 担っている(伊達治家記録など)。 天正10年(1582年)、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長 が横死する。しかし勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向かうことができなかった。 「最期」 本能寺の変後、織田氏の後継者問題では信長の三男・織田信孝の烏帽子親を務めていたこともあり、信孝を推した が、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が信長の嫡孫・三法師(織田秀信) を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなり、信長の遺領配分においても河内や丹波、山城を増領し た秀吉に対し、勝家は北近江3郡、長浜城(現在の長浜市)を得るにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転してしま った(清洲会議)。なお、この後に羽柴秀吉の仲介を受けてお市の方と結婚している(従来は信孝の仲介とされて 来たが、秀吉の仲介の書状により、秀吉による仲介説が有力となっている)。 その後勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗するが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に 敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した。享年62。辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井に あげよ 山ほととぎす」。 菩提寺は、福井県福井市の西光寺と滋賀県高島市の幡岳寺。位牌も現存している。 ★topへ |
★貴船神社(名東区HP参照) ★topへ正式には貴船社といい、雨の神を祭っています。この辺りは、かつて農耕が営まれていましたが、水に困ることが多く 各所に雨の神が祭られ、ため池もたくさんありました。このような田園風景も名古屋市との合併後、急速に住宅地に 変わってしまい、その面影はほとんどありません。 境内には、この地域一帯を開発した西一社土地区画整理事業の完了記念碑があります。★topへ |
★上社駅(H20) ★topへ 上社駅(かみやしろえき)は、愛知県名古屋市名東区上社1丁目にある、名古屋市営地下鉄東山線の駅。地 下鉄の駅だが、ホームは地上2階にある。駅番号はH20。 相対式2面2線ホームを持つ高架駅。バリアフリーの対応として、改札内に2基(各ホーム毎)のエレベーターが配置 されている。文化施設やマンションと一体化した駅舎となっており、バスターミナルを内蔵している。名古屋市東部 を流れる植田川を跨ぐ形で建築されており、洪水対策のため駅直下に調節池が設けられている。★topへ |
牧野池緑地公園で全員集合(2016.12.3)★(コースマップ)参照★topへ![]() |
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