
JR千種駅(2016.5.21)001 |

今池西公園へ(2016.5.21) n63002 |

今池西公園(集合・受付2016.7.2)63na001 | 
物部神社(合祀の結果尾張国では本社だけが残った)n63003 |

建中寺63na002 |

建中寺で地勢について説明を受ける63na004 |

自然院 007 |

徳源寺 ★(コースマップ)参照 009 |

徳源寺1592年織田信長の次男信雄が熱田に開創した宝泉寺が始祖 |

徳源寺の楠木(2016.5.21) 011 |

徳源寺の涅槃仏63na006 |

徳源寺の門の葵のマーク63na012 |

徳源寺における九重部屋の相撲の稽古63na009 |

徳川美術館(徳川園内) 024 |

徳川園63na018 |

正面:徳川美術館右:蓬左文庫左:徳川園021 |

新緑の徳川園を行く(2016.5.21)026 |

日本福音ルーテル協会(2017年は宗教改革500年)028 |

教会内部(正面・西日で十字架が光っている)032 |

了義院の三日月塚 037 |

了義院(貞享5年芭蕉が『有とあるたとへにも似ず三日の月』
と詠んだ『笈日記』の句形が刻してある。)040 |

三菱東京UFJ銀行貨幣資料館 ★貨幣博物館(日銀WEB参照)
日本および世界各国の貨幣約1万点を常設展示 043 |

三菱東京UFJ銀行貨幣資料館(ヤップ島の石貨)027 |

和同開珎模型と1億円の重さ(右下)026 ★貨幣史年表 |

古代ギリシャの貨幣028 |

古代ローマの貨幣028 |

民部省札(m2左)と太政官札(m1右) 033 |

造幣局瀬戸出張所の看板(左はお札に登場した人物034) |

文化の道二葉館(旧川上貞奴邸) 050 |

旧川上貞奴邸 051 |

山吹谷公園(昼食&全員集合)044 |

カトリック主税町教会 059 |

ルルドのマリア解説
(名古屋は主税町教会に1909年・明治42年建造) |

ルルドのマリア像(カトリック主税町教会内) 062 |

名古屋市市政資料館(旧名古屋控訴院・地方裁判所) 069 |

烏池古跡 ★(コースマップ)参照 075 |

文会書庫跡説明 n63w064/B> |

烏池説明(500×500) n63w076 |

石鐘のある寺(松嶋山圓明寺) 080 |

石鐘(松嶋山圓明寺) 082 |

石鐘の解説 |

貞租院本堂の解説 |

貞租院(解説は右上参照) 083 |

貞租院本堂 086 |

へちま薬師 087 |

へちま薬師東側の公園で解散式と次回の案内63na054 |
★今池西公園(マピオン) ★(コースマップ)参照 ★topへ
『用語解説』 ★(コースマップ) ★topへ
★物部神社(HP・wikipedia)の説明 ★topへ
物部神社は、愛知県名古屋市東区筒井にある神社。延喜式神名帳における式内社である。
大石を神体とすることから、石神神社(いしがみじんじゃ)、石神堂(いしがみどう)、山神(やまがみ)とも。
「歴史」
垂仁天皇の御代に初めて社殿を造営したと語り継がれている。平安時代前期の延喜式神名帳には愛智郡(愛知郡)の
式内社として物部神社があった。平安時代末期の尾張国内神名帳には、従三位物部天神と記されている。
JR中央本線千種駅を中心として物部神社や高牟神社がある地域は、古代には物部郷古井村、中世には鳴海荘古井村と
呼ばれ、物部氏の拠点があったとされる。
いずれも式内社の両社は400メートルほどしか離れておらず、尾張名所図会には物部神社と高牟神社が同一図に描か
れている。
元禄年間(1688年-1704年)には、第3代尾張藩主徳川綱誠が社殿を修復した。1868年(明治元年)、尾張国千種村
の本社が延喜式神名帳の物部神社に同定された。つづいて村社に列せられた。1953年(昭和28年)には本殿拝殿が
造営された。
祭神は物部氏の祖神である宇麻志麻遲命。尾張国や美濃国には数多くの物部神社が存在したが、多くが合祀された
結果、現在では尾張国では本社だけが残り、美濃国では本巣に2座のみが存在するという。★topへ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「参考:高牟神社」★topへ
【御祭神】高皇産霊神(たかみむすびのかみ)神皇産霊神(かみむすびのかみ)応神天皇
(=誉田別尊/ほんだわけのみこと)
【例祭日】 10月14日(例大祭)、10月15日(氏子大祭)
高牟神社は、延喜式にも記載されている由緒ある神社で、西暦131年、第13代成務天皇の御代に鎮座され、865年
(貞観7年)第56代清和天皇の御代に社殿を造営。
その折に、勅令により応神天皇が配祀されました。
「高牟」という名は、かつてこのあたりに住んでいた尾張物部氏の武器を納めた倉が後になって神社になったこと
に由来
しており、「高牟」の「牟」は、古代武器の代表だった”鉾”のことで、「高」は その美称です。
境内には、その昔、応神天皇長寿の祝水として産湯に献上し、延命長寿に霊験があるとされ、つきることなく湧き出
している名泉「古井の清水」があり、「元古井町」の地名の由来になっています。★topへ
★徳源寺 ★(コースマップ) ★topへ
臨済宗妙心寺派の修行専門道場は20近くの僧堂があるといわれているが、その中で七大専門道場と呼ばれる僧堂
の一つ
が徳源寺である。
京都八幡市の円福寺、岐阜市の瑞龍寺などがそれらにあたる。
徳源寺は1744年に現在地に再興され、円福寺の蘇山和尚を請じて雲水修行の専門道場が開創されている。
徳源寺は、1592年織田信長の次男・信雄が熱田に開創した宝泉寺が始まりと伝えられている。
大都市名古屋の中に、静かな風景を持つ専門道場の佇まいが癒しの空気を作りだしているようだ。
(1)寺名:徳源寺(とくげんじ)
(2)住所:愛知県名古屋市東区新出来1−1−19
(3)山号:蓬莱山 (4)宗派:臨済宗妙心寺派
(5)開山:忠嶽 (6)開基:織田信雄 (7)開創:1592年
(8)本尊:釈迦牟尼
★徳川園(wikipedia) ★(コースマップ) ★topへ
徳川園は、愛知県★名古屋市東区徳川町にある日本庭園。隣接して、国宝の「源氏物語絵巻」を展示する事で有名
な徳川美術館や、河内本『源氏物語』を所蔵する名古屋市蓬左文庫がある。
「概要」
1695年に造営された尾張藩2代藩主徳川光友の隠居所の大曽根御屋敷跡(当時の敷地は約44ha)に築造された池泉
廻遊式の大名庭園である。園内に配置された山、大曽根の瀧、渓流、龍仙湖、牡丹園、菖蒲田はそれぞれ、木曽
山脈、木曽三川、伊勢湾、濃尾平野に見立てられてのものであり、自然の景観を凝縮している。
これは、尾張国の、土地柄の豊かさを表現したものである。
また園内の龍門の滝は、尾張藩江戸下屋敷戸山荘跡(現在の早稲田大学戸山キャンパス)から発掘された龍門の
瀧の遺構を移設したものである。通常の流量は多くはないが、約20分おきに激流となる仕掛けを施して、下流に
ある飛石を水に沈めるというかつての戸山荘でのエピソードを再現したものとなっている。
瑞龍亭は、尾張徳川家が織田有楽斎を流祖とする有楽流を重用していたことから、有楽好みとした三畳台目の
茶室である。躙り口手前の燈籠も有楽好みの燈籠を再現したものである。
敷地から離れて西にロータリーがあり、そこには古井戸と藪椿の姿が見えるが、これも古くは徳川園の一部で
あった。古井戸は明治期に作られたもの。藪椿は元は光友のお手植えだったが、やはり太平洋戦争時に失われ
たものの、今はその二代目が植えられている。園西側の黒門は明治22年に建立された欅づくりの三間薬医門で
あり、戦災を免れた徳川邸の遺構として今日に大名屋敷の記憶を留めている。
「歴史」
元は尾張徳川家の大曽根別邸で、2代藩主光友の時代、1694年(元禄7年)または1695年(元禄8年)に隠居所
として建造された。
光友の歿後大曽根別邸は、尾張藩家老の成瀬家、石河家、渡邊家に渡る。1889年(明治22年)、尾張徳川家の
手に戻りその邸宅となったが、1931年(昭和6年)、尾張徳川家第19代当主徳川義親により名古屋市に寄贈さ
れた。だが、1945年(昭和20年)名古屋大空襲に被災して破壊された。その後はただの公園に整備されたが
2005年(平成17年)に日本庭園として再び造営された。 ★topへ
※徳川園(HP)
★ルーテル協会(HP)(★wikipedia) ★(コースマップ) ★topへ
ルーテル教会(ルーテルきょうかい、英: Lutheran Church、Lutheranism)は、マルティン・ルターにより
ドイツに始まる、キリスト教の教派または教団。ルター派(ルターは)とも呼ばれる。プロテスタントの一つ
であり、全世界に推定8260万人の信徒が存在する。発祥の地ドイツを始め、北欧諸国では国民の大半がルター
派であり、そこから移民が渡った先のアメリカ合衆国、カナダ、ブラジル等の南アメリカ各国でも信徒数が
多い。J.パッヘルベル、J.S.バッハ、テレマン、メンデルスゾーンなど著名な音楽家が多く所属し、作曲家
や音楽家に縁がある教会としても知られる。(★wikipedia) ★topへ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1517年、ローマ・カトリックの修道司祭(聖アウグスティノ会)だったマルティン・ルターによってドイツの
宗教改革が始められた(ドイツ・ヴィッテンベルクにおける「95ヶ条の論題」)。ルターは最初、新しい教会
を建てるつもりではなく教会内部の改革を目指していたが、カトリック教会から破門されて[1]妥協を許さない
状況になり、ルターは明確な信仰基準や組織を必要とするようになった。北欧にもルター派の教義は広まり、
スウェーデンではグスタフ1世が、デンマーク=ノルウェーではクリスチャン3世がルター派をそれぞれの国教
とし、権力強化に利用した。1555年、アウクスブルクの和議の結果、ルター派(ルーテル教会)はドイツ国内
での法的権利が認められた。1580年、ルター派の教理的な立場を示す「和協信条」が制定される。
アメリカへはヨーロッパからの移民と共に、ルター派の勢力が拡大、18世紀の中頃になり本格的な教派の
生成が行われた。19世紀以降、ドイツや北欧のルター派が大量に移住し、アメリカ中西部を中心にして定住
した。(★wikipedia) ★topへ
★了義院(WEB・HP) ★(コースマップ) ★topへ
三日月塚(了義院内)
「基本データ」
【建築年代】寛保3年(1743)
【所在地】徳川二丁目17番30号
【電話番号】052-935-0559
【駐車場】無
[解説]
芭蕉五十回忌の寛保3年(1743)10月に、五条坊木児が建立した碑。碑面には貞享5年(1688)に芭蕉がこの寺
のあたりで詠んだ『有とあるたとへにも似ず三日の月』と『笈日記』の句形が刻してあります。
この句には、「大曽根成就院(了義院の前名)」という前書があります。昭和20年10月、戦災で破損した原碑
を原形に復元し、これとは別に新碑も建てられました。 ★topへ
★三菱東京UFJ銀行貨幣資料館(WEB・HP) ★貨幣史年表(貨幣資料館WEB内) ★(コースマップ) ★topへ
日本および世界各国の貨幣約1万点を常設展示し、和同開珎、大判・小判から現代の紙幣までを体系的に展示、
世界最古の貨幣「殷の貝貨」、エジプト「クレオパトラ女王の銀貨」など世界の珍しい貨幣もご覧いただけます。
浮の世絵版画コーナーでは、歌川広重の浮世絵版画を、季節ごとにテーマを変えて50〜60点ご鑑賞いただきます。
(★名古屋観光情報)(★名古屋観光) ★topへ
★貨幣博物館(日銀WEB内)参照。
★二葉館(WEB・HP) (★wikipedia) ★(コースマップ) ★topへ
ひときわ目立つオレンジ色の洋風屋根、ステンドグラスの光がこぼれる大広間、そして落ち着いた伝統的な和室
――東洋と西洋の文化が溶け合った大正ロマンの香り高い館が、名古屋城から徳川園にいたる「文化のみち」の
拠点施設として甦りました。日本初の女優と謳われた川上貞奴と、 電力王と称された福沢桃介が、大正から
昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元し、貞奴の関連資料を展示するとともに、郷土ゆかりの文学
資料の保存・展示を行っています。 ★topへ
★山吹谷公園(WEB・HP) ★(コースマップ) ★topへ
橦木町筋にある山吹谷公園一帯は江戸時代山吹谷と呼ばれる景勝地で山吹の花の咲く名所でした。幕末の頃描
かれた「尾張名所図会」によると“いつしか宅地となりて今もなお山吹のところどころに残れるは、昔の面影
ぞかし”と記されすでに山吹谷は武家屋敷であったことが解ります。周辺のなだらかに登り下りする坂道は
昔の山吹谷の面影を伝えています。(★東区を歩こう) ★topへ
★豊田佐助邸(wikipedia)(★旧豊田佐助邸)(WEB・HP) ★topへ
「概要」
建物は1923年(大正12年)に建築されたもので、木造2階建の洋館と和館から成る。白いタイル張りの洋館を
主屋にこの2棟は接続しており、和洋折衷の建築となっている。1945年(昭和20年)には、米軍に接収され、
高級将校用住宅として使用されていたが、1970年(昭和45年)よりアイシン精機の所有となっている。
また、1995年(平成7年)より、名古屋市が無償で借受け一般公開している。
2011年(平成23年)10月17日には名古屋市の認定地域建造物資産に認定されたほか、歴史的建造物などが多く
残る文化のみちエリアの一部となっている。(★名古屋観光)★topへ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「基本データ」
【建築年代】大正12年(1923)
【指定】町並み保存地区の伝統的建造物
【所在地】主税町三丁目8
【電話番号】052-972-2780(名古屋市観光文化交流局 歴史まちづくり推進室)
【入館料】無料
【休館日】月曜日(祝日の場合は直後の平日)
【開館時間】10:00〜15:30
【ガイドボランティア】
火・木・土曜日 (随時案内)
発明王・豊田佐吉の弟、佐助が住んでいました。
当時、長塀町に佐吉邸、白壁町に豊田喜一郎邸と豊田利三郎邸もありましたが、現存するのはこの豊田佐助邸
のみとなっています。豊田利三郎邸は門と塀だけが残されています。木造の洋館・和館を併設したスタイルで
洋館の1階では蓮の蕾の形の照明、吊元の装飾、鶴亀にとよだの文字をデザインした換気口などが見られます。
★topへ
★名古屋市市政資料館 (コースマップ) ★topへ
名古屋市市政資料館は、赤い煉瓦と白い花崗岩、緑の銅版、そしてスレートの黒を組み合わせた荘重で華やか
なネオ・バロック様式の建物で、国の重要文化財に指定されています。大正11年に名古屋控訴院・地方裁判所
・区裁判所として建設されましたが、現在は名古屋市の公文書館として、行政文書や資料を保存し閲覧して
いるほか、この建物が市民の集いの場となるよう会議や集会、展示のためのスペースも備えています。
名古屋の歴史や文化を知る上で欠かせない資料館です。 ★topへ
★烏池 ★topへ
養念寺は、慶長2(または4)年に賢誓(富永久太郎/伊勢長深城主・富永筑後守の一族)によって創建された
阿弥陀如来坐像を本尊とする真宗大谷派寺院です。元禄年間には檀家三浦家の娘(宣揚院)が綱誠の側室と
して迎えられ、さらにのち7代藩主となる宗春を産んだことにより藩から寺領寄進を受けたり、7代宗春の頃
には宗春や宣揚院の私物が次々と送られた。
烏池は、養念寺創建の時から存在する池で、貞祖院の「烏の清水」(現存せず)と水脈がつながっていたと
言われている。池の水は、戦災によって一時干上がりましたが、池底を浚えることによって水位が回復し、
以後日照りが続いても水が枯れることはなく、また大雨が降っても池水が溢れることがなかったという。
庭園は、戦災によって荒廃しましたが、昭和56年に沢田天瑞氏の設計により改修・整備され現在に至る。
★topへ
★円明寺(WEB・HP)の石鐘 ★(コースマップ) ★topへ
昭和16年の金属類回収によって銅製の鐘が供出され、代わりに吊された。終戦後、戦争の記憶を後世に残す
ため現在も吊し続けられている。(平成27年8月 松嶋山圓明寺)
★貞租院(WEB・HP) ★topへ
(喜秀山)貞祖院について:浄土宗のお寺です。
慶長13年(1608)、清州城主であった松平忠吉公の養母於美津(おみつ)の方が清州に創建。
≪松平忠吉(28歳で病死)の位牌所として清州に創建≫(松平忠吉は家康の四男で、二代目将軍秀忠の
同母弟)寛保2年(1742)に清州より現在地に移るが天明2年(1782)に焼失。
仮本堂を明治5年(1873)に、建中寺の尾張徳川家の御霊廟(おたまや)を譲り受けこれを本堂として
現在に至る。建物は、総漆塗りで、内部・外部とも極彩色である。
天井は一面を格子で仕切り、葵と菊の紋が描かれています。
毎年11月3日の催し「歩こう!文化のみち」の際には公開されています。 ★topへ
★へちま薬師(等充寺)(WEB・HP) ★topへ
東充寺縁起
当寺の歴史の始まりは、尾張国丹羽郡稲置(現在の犬山市・小牧市周辺)にあったという薬師尊像を安置
していた杉御堂に詣でた坂東充蔵という小牧の地頭が自ら勧進をして小牧山嶺に諸堂を建立し尊像を
鎮守となし、「東充寺」と称したことから始まったと伝えられている。
その時に鎮守として安置されたる尊像は三河国鳳来寺峯の薬師如来と同木同作にして利修仙人
(白鳳時代)の作と伝えられている。
その後、天正年間織田信長公清洲に居城の時、その地に移り、觀仙察公上人の開山とされる。
また慶長十四年六月、徳川義直公名古屋城築城の際の命により現在の地(東寺町)に移り今日に至る
(慶長遷府・清洲越し)。 ★topへ
|