第98回友歩会史跡巡りシリーズ・岐阜編Part15 (詳細・拡大)
(令和5・2023年10月7日(土)天気:晴れ) (35名参加) 歩数:28,727歩
下見・令和5年9月2日(土)晴れ・(10名参加)・歩数:26,852歩
★コース:
スタート−中島バス7:11発(9.2下見)→JR尾張一宮7:44発→垂井駅着8:17→(駅前/受付)スタート→
→勝神社→薬師寺→阿弥陀寺(千句の里)→常夜灯→表佐(おさ)祖先同胞碑(英魂碑)→ハリヨ池→湯つぼ→大領神社
→南宮大社→(南宮山)稲荷神社→眞禅院の三重塔→朝倉公園→春王・安王の墓→金蓮寺→垂井駅(10Km)
★85回例会(2020.10.3:垂井〜大垣85reikai.htm)★92回例会(2022.10.1:垂井町北部r492.htm)
★『解説』欄へ ★全員集合(南宮大社) ★垂井町中山道及び南部(南宮大社他)r598w45 WIDTH=1400
★垂井町 ★垂井町観光ガイド ★タルイピアセンター★中山道垂井宿(HP参照) ★コースマップ(PDF)
★垂井町のスズカケソウ
JR垂井駅/南側(2023.9.2) |
受付(垂井駅前2023.10.07) |
垂井町・勝神社へ r598013(2023.9.2) |
勝神社本殿北側の勝宮古墳(9.2) |
勝神社本殿(9.2) r598016 |
在原山薬師寺(西側に業平川がある) r598021 |
在原山薬師寺の由来 r598022 |
薬師寺住職の話(業平の寺)を聞く r510716(10.7) |
在原山薬師寺を創建した在原業平座像 |
阿弥陀寺/千句の里(9.2) r598026 |
阿弥陀寺(9.2) 028 |
阿弥陀寺本堂内部(9.2) 029 |
常夜灯(9.2) |
表佐(おさ)祖先同胞碑(英魂碑)(9.2) |
表佐のハリヨ・ホタルを育てる会(9.2)043 |
表佐のハリヨ(拡大版参照) 044 |
湧水の小川でとれたハリヨ r510724 |
湯つぼの説明を受ける r510726(10.07) |
表佐の湧水(水質検査は拡大版参照)045 |
表佐のハリヨ(9.2) 046 |
大領神社(本殿) 052 |
大領神社(9.2) 054 |
南宮大社へ到着(9.2) 055 |
南宮大社(楼門・石輪橋) 061 |
南宮大社(9.2) 067 |
南宮大社境内の風鈴亭(9.2) 068 |
南宮稲荷神社 40 |
安国寺恵瓊の陣跡へ41 |
南宮山麓に陣を構えた吉川広家の陣跡072 |
朝倉山眞禅院へ(9.2) 076 |
眞禅院 079 |
眞禅院(9.2) 081 |
眞禅院三重塔 082 |
朝倉公園へ(9.2)093 |
朝倉公園 094 |
朝倉公園(9.2) 095 |
池田輝政陣跡 096 |
春王・安王の墓(9.2) 098 Top |
春王・安王の墓と池田輝政陣跡 102 |
春王・安王処刑の旧跡 106 |
金蓮寺 107 |
金蓮寺(9.2) 112 |
金蓮寺の縁起 109 |
金蓮寺の略縁起 110 |
垂井駅前でクールダウン(10.7)68 |
南宮大社で集合写真(10.7)32 |
『解説』 ★垂井町観光ガイド ★コースマップ(PDF) Top |
★垂井駅 Top垂井駅は、岐阜県不破郡垂井町にある東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅である。駅番号はCA78。 橋上駅舎を備え南北に駅前広場をもつ。また、北口の広場には竹中半兵衛の銅像が鎮座している。 当駅は東海交通事業の職員が担当する業務委託駅であり、大垣駅が管理している。なお、当駅にはJR全線 きっぷうりば・自動券売機・自動改札機などがあり、TOICAおよび提携ICカードの利用が可能である。 駅前広場から改札までは南口、北口ともにエレベーターと上りエスカレーターを1基ずつ備える。 改札から各ホームまではエレベーターがそれぞれ1基あり、2・3番線には上りエスカレーターが1基設置 されている。そのため駅前広場と各ホーム間は自由通路を含め、バリアフリーに対応している。 「ダイヤ」 普通はすべて大垣発着であるが、快速系統の各列車は岐阜・名古屋方面へ直通する。 「日中時間帯」 米原 - 大垣を運行する普通が、上下線とも1時間あたり2本停車する。 (朝) 米原始発の新快速と関ケ原始発の新快速・区間快速が運行される。 なお、土曜・休日は米原発着の特別快速と米原行きの区間快速も運行される。 (夕方以降) 米原発着の特別快速・新快速・快速が運行される。なお、晩は米原行きの区間快速も運行される。Top |
★勝神社(垂井町観光ガイドWEB) Top筑後玉垂命(ちくごたまたれのみこと)(武内宿禰(たけのうちすくね))勝氏がまつられていると いわれ、本殿北には前方後円墳があります。 周囲は約30m、高さ約3mの古墳で、石室をつくった石材が残っています。 |
★在原山薬師寺(垂井町観光ガイドWEB) Top六歌仙の1人、在原業平(ありわらのなりひら)が美濃権守(ごんのかみ)として赴任した元慶3年 (879)に建立し、在原業平寺と呼ばれていたといわれています。 天明2年(1782)、大本山永平寺47世天海薫元(てんかいくんげん)が再興して、曹洞宗に 改宗されました。 |
★阿弥陀寺(千句の里)(垂井町観光ガイドWEB) Top連歌の巨匠飯尾宗祇(いいおそうぎ)が、連衆16名と共に句会を催したことから、千句の里と呼ば れるようになりました。阿弥陀寺27世の住職敬誉(けいよ)上人が表佐千句(別名、十花千句)など を残し、上人の墓がまつられています。 |
★常夜灯 Top 江戸時代初期より、伊勢信仰が盛んになりました。それにより、常時灯明を灯し、伊勢神宮の仮の宮としてお参り するようになった。この表佐の常夜灯は、弘化2年(1845)に石垣を積み、翌年に木の灯明を建てたとの記録が 残っている。昭和34年の伊勢湾台風で倒壊し、新しく作り直されて現在に至っている。 (ふるさと表佐史跡探訪物語) |
★表佐(おさ)祖先同胞碑(英魂碑/PDF参照) Top 「ふるさと表佐史跡探訪物語」によれば、旧表佐村には東西2ヶ所に火葬場があったが個人的に墓碑を造る習慣 がなかったので両葬場の人灰や人骨を集めて合同墓碑を大正7年に造られ、昭和61年に改修された。それが、 現在の祖先同胞碑です。 |
★ハリヨ池 Top垂井町 表佐地区(おさちく)は湧水で有名な地域です。 伊吹山水系の扇状地末端にあたり、水量豊富な湧水に恵まれており、水温も年間を通じて、16℃前後に 保たれているため、ハリヨ・ホタルの育成に適した土地です。 ハリヨは、15度C位の清水、砂泥質の水底に住む魚で体長4〜6pほど。体には上下に5本のトゲが出ているのが 特徴です。またこの魚は水草で巣を作り、子育てをすることで有名です。現在は湯壺の東方に湧水池を作り、 そこでもこの魚を見ることができます。 「ふるさと表佐史跡探訪物語」参照 ★「表佐ハリヨ生息地 湯壺池」 体長4〜6cmの淡水魚で、岐阜・滋賀県にのみ生息します。 水温20℃を超えると生息できないため、清浄な冷水地が必要です。★【岐阜県西濃地域】ハリヨが自然観察できる生息地 Top |
★湯つぼ Top表佐地域は、伊吹山水系の扇状地末端に位置し、河間(ガマ)と呼ばれる湧水が多く点在しています。 その河間の中でも、特に湧水の量が豊富なところを「湯壺」と呼び、大切に維持されてきました。 そのため、当地には古くから「字泉口」「字湯壺」「字水気免」などの地名が残っています。 湯壺の池の水温は15.5℃前後に保たれており、ハリヨの生息に適した環境です。魚群も多く見られ、時期と場所 によっては梅花藻を見る事ができます。水は直接飲めるほど綺麗な水です。 岐阜県公衆衛生検査センターによる水道水の最も厳しい水質検査にも適合する水質で、株式会社環境科学研究所 の水質検査書も張り出されています。 |
★大領神社 Top大領神社(たいりょうじんじゃ)は、岐阜県不破郡垂井町にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。 美濃国二宮とされる。南宮大社の摂社である。 祭神は、宮勝木實(みやの すぐりの このみ) 宮勝木實は、壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)の命で、不破道(不破関付近)に出兵した人物。 功績により、不破郡の大領になったという。 |
★南宮山(wikipedia) Top南宮山は、岐阜県大垣市、不破郡垂井町、関ケ原町、養老郡養老町にまたがる標高419 mの山。山頂は大垣市 と垂井町の境界にある。山域は1970年(昭和45年)12月28日に、揖斐関ヶ原養老国定公園の指定を受けている。 別名が「美濃ノ中山」。 関ヶ原の戦いでは主に毛利氏が南宮山に陣を構えた。合戦前には浅野隊と南宮大社付近で交戦、池田隊と銃撃戦 を展開していた者もいたが、吉川広家が東軍に内通していたため毛利、安国寺、長束、長宗我部は本戦に参加 せずに戦は終わった。また、山内一豊、蜂須賀至鎮、有馬則頼らは当初南宮山の西軍に備えていたが家康の命に より本戦に参加した。この戦で麓の南宮大社は焼失したが、その後春日局や竹中氏などの願いもあり徳川家光が 再建した。 『南宮山及びその周辺の陣跡(場所)』 「南宮山」 毛利秀元陣跡(展望台付近)、吉川広家陣跡(不破高校の西側)、安国寺恵瓊陣所跡(登山口付近) 長束正家陣跡(南東麓) 「周辺」 長宗我部盛親陣跡(清水寺公園の中)浅野幸長陣跡(垂井一里塚付近)池田輝政陣跡(春王・安王の墓付近) 上記の陣跡は全て垂井町にある。 |
★南宮大社(垂井町)(web参照) Top南宮大社は岐阜県不破郡垂井町宮代峯に鎮座している神社です。南宮大社の創建は神武天皇の即位の年に勧請 されたのが始まりとされ、伝承によると神武天皇東征で、難敵だった長髄彦に苦戦を強いらていた際、 金山彦命は霊験を持って金鵄を助けた事で見事勝利に導いた功により美濃国不破郡府中に祭られるようになった と伝えられています。 当初は美濃国府に近い不破郡府中に鎮座し仲山金山彦神社と称していましたが崇神天皇の御代(紀元前97年〜 紀元前29年)に美濃仲山麓にあたる現在地に遷座し、国府から南方に位置する事から南宮大社と称されるよう になりました。・・・ 南宮大社の主祭神である金山彦命は三野前国造である八瓜命の母方の神である鍛冶や火を連想させる神であり、 見野命は元々の地主神だったような印象を受けます。(WEB) 【 南宮大社の社格 】 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には美濃国39座の内唯一の名神大社として記載され、美濃国 で最高位だった事から美濃国一宮として国事の祭祀を司り、天慶2年(939)の天慶の乱の際には平将門の 追討、康平2年(1059)の前九年の役の際には安部貞任の追討の祈祷、祈願が行われ、何れも勝利に導き 見事念願成就した為、神意に感謝し康平5年(1062)には正一位勲一等を賜わっています。 美濃国一宮として歴代領主からも庇護され、文亀元年(1501)の火災で焼失した際には当時の美濃守護職 土岐政房により再建され、天正17年(1589)には豊臣秀吉から供田160石、社堪忍分200石が寄進 されました。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは境内が主戦場に近く、兵火により多くの堂宇が焼失一時荒廃しまし たが、江戸時代に入ると徳川家が庇護し、慶長14年(1609)には徳川家康より社領405石が安堵され、 寛永19年(1642)には3代将軍徳川家光により堂宇が再し境内を一新しています。 延暦年間(782〜806年)、最澄が神宮寺を開山してから神仏習合の形態をとっていましたが明治時代 初頭に発令された神仏分離令により仏式の堂宇が移設され(神宮寺から真禅院に寺号を改称)、神社として 独立しています。 明治3年(1871)に南宮神社として国幣中社に列し、大正14年(1925)に国幣大社に列し戦後に なって南宮大社に社号を改称しています。主祭神の金山彦命は名称の「金山」に因み鉱山を司る神や荒金を 採る神とされ、金山彦命を祭る神社としては南宮大社が一番格式が高い為、鉱山、金属業の総本宮として 関係者から篤く信仰されています。主祭神:金山彦命。配神:彦火火出見命・見野命。 Top |
朝倉山真禅院(Web) Top朝倉山真禅院(あさくらさんしんぜんいん)は、寺伝によれば今から約1300年前の天平十一年二月(七三九年)に 行基菩薩により創建された天台宗の古刹です。美濃国一の宮南宮大社の元神宮寺にて「朝倉山」「朝倉観音」とも 呼ばれています。当寺院は、十一面観音霊場として昔から親しまれ、江戸時代の木曽路名所図会にも記されて います。三重塔・本地堂・梵鐘の国重要文化財があり、梵鐘は東海地区最古のものです。 また随時家内安全・交通安全・厄除け・身体健全・安産等各種祈願・水子供養や先祖代々・ペット (愛犬・愛猫等)の供養を厳修しております。「美濃五山」 Top 岐阜県の美濃地域に位置する天台宗の古刹、美江寺、横蔵寺、善学院、円興寺、真禅院の五寺院を総称して 「美濃五山」といいます。五ヶ寺とも創建は奈良・平安時代まで遡り、1200年にわたる悠久の信仰と 歴史と文化財を有する寺院です。美濃五山は、ふるく室町時代頃より始まり、美濃(岐阜市、揖斐川町、 神戸町、大垣市、垂井町)の各地にある天台宗の宗祖伝教大師最澄ゆかりの五ヶ寺を巡拝する観音霊場です。 |
★朝倉運動公園 Top 美濃の中山として知られ、詩歌にもよく詠まれた南宮山。朝倉運動公園は南宮山山麓にあり、眺望のすぐれた 公園です。また、各種スポーツ、レクリエーション施設が整っており、町民の憩いの場となっています。 (JR垂井駅・南宮大社・南宮稲荷神社・真禅院・朝倉公園) Top ★あいちお散歩ナビ(南宮大社他) Top |
★春王・安王の墓(垂井町Web参照) Top永享の乱(1438)で敗れた足利持氏の遺子、春王丸、安王丸は、結城合戦で幕府方の捕らわれの身となり、京都へ 護送の途中、金蓮寺で処刑されました。幼い2人の墓は垂井町字御所野にあり、県指定の史跡となっています。 |
★金蓮寺(WEB) Top金蓮寺(きんれんじ)は、岐阜県垂井町にある時宗の寺院である。 本尊は阿弥陀如来。かつては御所野道場とも呼ばれた。足利春王丸、足利安王丸終焉の地として知られる。 延暦年間に伝教大師最澄によって、天台宗の寺院として御所野の地に開かれたと伝わり、創建当初は南宮大社の神宮寺 であった。応永17年(1410年)に遊行上人11世自空により中興され、時宗の寺院となる。 嘉吉元年(1441年)には、結城合戦に敗れた足利持氏の子、足利春王丸と足利安王丸の2人が京都へ護送される途中、 当地で斬殺されている。その際に遊行上人17世暉幽により弔われ、その木像が作られている。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにより兵火を受けて焼け落ちたため、現在地に再建された。 また、成立した江戸幕府により、350石有していた寺領の大半を没収されて寺領は35石となっている。 旧境内地には足利春王丸、足利安王丸兄弟の墓があり、岐阜県指定の史跡となっている。 また、寺内に祀られている同兄弟の木像は垂井町の文化財に指定されている。 ★春王丸(Wikipedia)の辞世の歌は「夏草や 青野が原に 咲くはなの 身の行衛こそ 聞かまほしけれ」 安王丸は「身の行衛 定めなければ 旅の空 命も今日に 限ると思へば」 Top |
★美濃路 Top「美濃路とは、中山道垂井宿から、大垣・墨俣・起・萩原・稲場・清須・名古屋の7宿を経て、東海道宮宿(熱田) へと続く全長14里24町(約58km)余りの街道。中山道に付属する脇街道として幕府の道中奉行の支配下に 置かれた道です。佐渡川(揖斐川)・墨俣川(長良川)・境川(小熊川)・起川(木曽川)に渡し場が設けられ、 将軍や朝鮮通信使などの通行の際には、いくつもの船をつなげて作られた「船橋」が架けられた。 美濃路の原型は鎌倉街道と考えられており、又、関ヶ原の合戦において、徳川家康が凱旋した道でもあること から、江戸時代には「御吉例街道」とも呼ばれた。 美濃路は東海道の鈴鹿峠や伊勢湾を渡る「七里の渡し」のような難所が比較的少ないため、朝鮮通信使や 琉球使節などの外国使節、象などの珍獣、権威を誇った大名行列や御茶壷行列などの特殊な通行が頻繁に 行われる道となっていった。」 Top |
★垂井宿(岐阜県垂井町) Top垂井宿(たるいじゅく)は中山道57番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は岐阜県不破郡垂井町。 西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町にあった。問屋場は3か所あった。 毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑わった。 大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃の交通の要衝であった。 Top |
全員集合(南宮大社)2023.10.07 Top r59107349 Top |
垂井町中山道及び南部(南宮大社他史跡マップ/右下にハリヨ池がある)r598w45 WIDTH=1400 Top |