第107回史跡巡りシリーズ・名古屋編Part17  
詳細資料) 
(令和7(2025)年3月1日(土)天気:晴れ) (49名参加)歩数:28,517歩
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コース:
スタート−9:00・地下鉄・八事駅仏地院八事神社塩竈神社島田神社地蔵寺(4kmWC)→島田城跡
菅田神社6km昼食→相生山緑地葉書塔徳林寺相生山神社千秋家の墓野並八剱神社野並駅(11Km)

コースマップ(PDF) 『解説』欄へ 名古屋神社ガイド 天白区の概要(名古屋市HP)全員集合
第77回友歩会名古屋編p12(H30(2018).12.1)



地下鉄八事駅周辺(8つの坂) r73002

地下鉄八事駅で受け受け r73004

八事神社で注意事項やコース等説明 r73012

八事神社をスタート r73014

仏地院院 107buttiin.jpg

八事神社でコース説明の前に立ち寄った。(3.1)

八事神社 107yagoto

八事神社 r73013

塩竈神社へ r73017

塩竈神社の絵馬 r73019

天白川(手前、右は植田川)r73024

天白川に架かる寄鷺橋(きりょうはし) r73023

天白川に架かるニールセンローズ型のつり橋 r73025

天白川護床工の馬蹄形の川床 r73027

島田神社へ r73028

島田神社 r73032

地蔵寺 r73036

地蔵寺 r73038

地蔵寺 r73039

島田城跡資料編参照) r73043

菅田神社 r73045

菅田神社 r73046

菅田神社で昼食 r73048

菅田神社で全員集合(Tさん) r73w088

相生山緑地を行く r73057

相生山緑地(竹炭焼き案内)r73058

相生山緑地(かぶと虫の家)r73060

葉書塔 r73064

徳林寺へ r73070

徳林寺 r73072

徳林寺の鐘撞堂 r73073

徳林寺の梵鐘 r73076

徳林寺の梵鐘 r73084

徳林寺 r73087

徳林寺のイラストマップ r73wtoku

千秋家の墓 r73091

野並八剱神社 r73093

野並八剱神社に集合 r73094

野並八剱神社で解散式 r73097

野並八剱神社から野並駅に向かう r73099

野並駅(地下鉄桜通線)
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『解説』   コースマップ(PDF)    Top
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地下鉄・八事駅(wikipedia)      Top
八事駅(やごとえき)は、愛知県名古屋市昭和区広路町字北石坂にある、名古屋市営地下鉄の駅である。
名城線側のアクセントカラーは水色。鶴舞線と名城線が乗り入れる。
鶴舞線駅務区八事管区駅が管轄する駅であり、川名駅から平針駅までの各駅を管理している。
この一帯は名古屋市を代表する高級住宅街の一つである。また、興正寺の縁日には参詣客でにぎわう門前町としての一面も持つ
が、近隣に複数の大学があるため若者向けの店舗を中心とした学生街としての発展も顕著である。八事駅は昭和区と天白区の境界
に位置しており、駅南東は天白区である。当駅の北側、南側とも急な坂があり、東側も植田の方に向かって下り坂になっている。
 八事駅・仏地院・塩竈神社 ・・・107siomap.jpg  Top
仏地院(愛知県名古屋市天白区音聞山1324 HP参照)  Top
尾張三十三観音霊場の尾張南部、中部の寺院巡りの7寺目は、名古屋市天白区に在る第32番 音聞山 仏地院です。曹洞宗で、
本尊は如意輪観音。大相撲の二所ノ関部屋が宿舎としている寺院です。前身は1393年に開創された真言宗の寺院であった。
数度の火災のため荒廃したが、1624年に復興、曹洞宗に改宗し、陶金山仏地院とした。大正7年現在地に移転し、音聞山
仏地院と称したとの事です。

第32番札所の仏地院は、名古屋市天白区の丘陵地帯、音聞山地区にある。樹々に囲まれて静かにたたずむ。
周りは文教地区で、南に天白川が流れる。本尊は如意輪観音。尾張観音巡礼の結願まであとひとつ。
結願所の興正寺はここから1.5kmと近い。
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八事神社HP参照 (名古屋市天白区御幸山1339)  Top
八事村にあった八幡社に、一之御前社と高峯社を合祀して八事神社としたのが明治43年(1910年)のことだった。・・・
『尾張志』に”八幡社は八事村音聞山のふもとにあり、神功皇后、応神天皇、玉依姫三坐を祭るとよし社人を富田式部という。
・・・現在、御幸山(みゆきやま)と呼んでいる山をかつては音聞山(おとききやま)といっていた。・・・
御幸は行幸(ぎょうこう)の意味で、明治天皇と大正天皇の御野立所(休憩所)がここに設けられたため、御幸山と名を改めた。
 御幸山の西には音聞山の地名が残っており、北は八幡山が町名となっている。八事村の集落は現在の元八事にあって、上八事と
下八事に分かれていた。・・・現在の八事神社では神功皇后も玉依姫も祀っていない。・・・御幸山の一帯は今でこそすっかり住宅地と
なっているけれど、江戸時代は尾張を代表する景勝地で、明治から昭和にかけては一大観光地だった。名古屋の人が「山」といえ
ば「八事山」のことで、「山へ行く」といったらそれは八事の山に行楽に行くことを意味した。
 1686年に八事山興正寺(web)が建ち、お参りもしつつ、山に登って景色を眺めるということを江戸時代の人々はしていたのだ
ろう。熱田宿の向こうはすぐ海だったから、実際ここからよく海が見えたはずだ。明治になると八事に馬車鉄道が開通し、やがて
路面電車になった。山には遊園地ができたり、野球場が建てられたりもした。かつての八事はものすごい賑わいだったようだけど
今の八事を知っているとその頃の様子を想像するのは難しい。歓楽地の面影はなく、今は大学などの学校が集まる文教地区という
イメージが強い。 ここが音聞山と呼ばれた頃の八幡はどんなふうだったのだろう。名古屋神社ガイド
塩竈神社HP参照(愛知県名古屋市天白区御幸山1328) Top
宮城県に鎮座される鹽竈神社から御分霊を賜りお祀り申し上げたのが起りと伝えられております。御祭神は潮流を司る
海路の神とされる鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)で、出産は潮の干満に関係していることから安産の守護神として
あつく信仰されております。また製塩の技術をお伝えになった教え導きの神ともいわれ、生児の無事成育・虫封じの
守護神としてもあつく信仰されております。
Top
島田神社HP参照(名古屋市天白区島田3丁目301)  Top
今回は島田神社(地図)を紹介します。島田神社について語るためには島田城(地図)と島田地蔵寺(地図)をセットにしない
といけないのだけど、いっぺんに書くのは大変なので3回に分けて紹介するくことにしたい。
 室町時代前期、南北朝時代の武将で守護大名だった斯波高経(しば たかつね)が島田城を築城した際、城の鬼門除けとして
熊野権現を勧請して祀ったのが島田神社の始まりとされる。貞治年間というから1362年から1367年の間ということになる。
ただ、島田神社がそんなに新しい神社とは思えない。古くは熊野社といっていたし、それ以前は別の社名だったかもしれない。
(/yagoto/107simada.jpg)
島田神社と島田地蔵寺 Top
地蔵寺 Top
地蔵寺、通称「島田地蔵寺」、名古屋市天白区島田。嘉吉2年(1442)の創建。熊坂長範の馬盗変毛の伝説から「毛替地蔵尊」
を祀る曹洞宗(禅宗)の寺院。東海地方で最古の地蔵尊(掛軸)と恵心僧都 御作と伝えられる地蔵尊があり、本尊の阿弥陀如来
は定朝作と伝わる。yagoto/r73w040.jpg
Top
島田城跡(wikipedia参照)  Top
島田城(しまだじょう)は、尾張国愛知郡(現愛知県名古屋市天白区島田)にあった日本の城(平城)。
県遺跡番号010064として埋蔵文化財包蔵地になっている。室町時代初期、尾張・遠江・越前の守護斯波高経が鎌倉街道の要所と
なるこの地に築城した。詳しい築城年は不明である。室町時代末期、斯波義銀の従兄弟牧長義が小林城主となり、その出城とし
て島田城を修理した。北には天白川、東には島田川が流れる。尾張志では、島田城の規模は東西約40間(約76メートル)、南北
約100間(約182メートル)とされる。
牧顕朝の子孫が代々城主をつとめ、牧義次・牧義汎・牧左近・牧虎蔵(牧野虎蔵)と続いていった。
江戸時代以降も、この地域に牧一族は住み続け、現在も牧姓が周辺に多い。現在はかつての中心部付近に牧神社が鎮座していて、
私有地ではあるが立ち入りが可能となっている。土地区画整理が行われる前は濠や矢場が一部残っていた。
 yagoto/107shimada_castle.jpgTop
107shimada_castle.jpg Top資料編参照
菅田神社(名古屋市天白区菅田2丁目) yagoto/107sugetamap.jpg
八事駅・塩竈神社・地蔵寺・菅田神社・相生山緑地・天白川 Top

天白区菅田(すげた)にある菅田神社(すがた-じんじゃ)web参照 Top
まず菅田の若宮八幡社は明治5年(1872年)に村社に列格している。同じ時期に嶋田村の熊野社と池場の神明社も村社に列格したと考えられる。
明治42年、国が推し進めた神社合祀政策を受けて嶋田村の神社も整理することになったと推測できる。嶋田の熊野社に神明社、八幡社、天神社、
山神社が合祀された。その上で、菅田の若宮八幡社にその熊野社と熊野社の境内社だった知立社、山神社、秋葉社を合祀して島田神社となった。
つまりは、熊野社と若宮八幡社と神明社と、その他の神社が全部合体して島田神社となったということだ。それが明治42年のことだった。
その後、大正11年(大正12年とも)に、熊野社を分離独立させて元地に戻し、島田神社は菅田にあるということで菅田神社に改称した。
元地に戻った熊野社は、大正15年に天神社と秋葉社を合祀して島田神社となった。
島田神社は昭和20年にあらためて村社に列格し、同年に指定社となっている。
Top
天白川 Top
愛知県日進市東部の名古屋商科大学の西南隣接地にある三ヶ峯上池付近に源を発する。日進市を西へ流れ名古屋市へ入ると
天白区を横断。各区および東海市の境界を流れ、名古屋港へ注ぐ。
天白川大橋付近から星園橋付近までは天白川緑道として整備されている。 
名称は下流の名古屋市緑区鳴海町にあった『字天白』(旧東海道にある天白橋のすぐ東隣の土地のこと)にその昔『天白神』
が祀られていたことによるものである。 
天白川の名前は明治時代になってから名づけられたものであり、それまでは米野木川と呼ばれていた(同時に社川と呼ばれて
いた支流は植田川と称することになった)。これは当時の愛知郡植田村(現在の名古屋市天白区植田)では米野木川も社川も『
植田川』と呼ばれており、紛らわしいため名称を整理したものである。
江戸時代の頃から水害が度々起きており流路が幾度も変わっている。途中にダムは一つも存在しない。
散歩道・天白プロムナード(pdf)
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相生山緑地(名古屋市HP)  Top
相生山緑地(pdf)は、名古屋市東部に広がる東部丘陵地にあり、昭和15年に当時の防空緑地として都市計画決定されました。
標高10から60mの3つの台地と2つの谷筋から成り立つ起伏に富んだ地形に広大な雑木林が広がり、良好な自然景観を残しています。
緑豊かな場所で憩いと安らぎ、涼風や四季の変化をご満喫ください。相生山緑地(HP参照)
以下は、武田さんからのLINE記事(2025.2.13)です。・・・aioi20253.jpg
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葉書塔 Top 
相生山緑地の相生口から入ったすぐの森の中にこの葉書塔があります。この塔は中日新聞の前身である新愛知新聞が、昭和2年に
一般から葉書投票で、「愛知県下の新10名所」を募集したときに集まった2千万通余りの葉書が納められています。
そして当地が300余りの候補地の中から堂々5位に輝き、10名所入りを果たしました。4角形に見えますがよく見ると正5角形をして
おり、その横にはそれを記念する石碑も建てられています。
現在のこの塔は昭和62年修復され、葉書供養塔として新生し、皆様の悩み文を納めていただき、毎月23日(フミの日)に徳林寺に
おいて奉仕供養が行なわれています。
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徳林寺  Top
名古屋市天白区の山林、相生山にひっそりと佇む徳林寺。曹洞宗大本山総持寺の中興の祖ともいわれる牧牛素堂禅師によって明治
時代に開かれ、五代にわたってこの地を見守ってきました。本尊には泰国から持ち帰られた釈迦牟尼仏像が安置されています。
このような禅宗のお寺としての歴史を持ちつつ、歴代住職の自由気ままなあり方から、徳林寺にはどこかのんびりとした雰囲気に
つつまれています。現住職・秀暢和尚はネパールにて10年間を過ごし、その当時、ほとんど野ざらしであったサンスクリット
写本の保全活動に取り組みました。その縁もあって、現在多くのネパール人が徳林寺と関わりを持っています。また、本堂前の
タルチョは徳林寺のシンボルになっています。
2025年2月7日午後9時20分頃、徳林寺で火災。本堂は延焼していない。(中日新聞2月8日号p28、記事はTさんから)
火災現場の横を通った。(2025.3.1)Top
相生山神社(名古屋市天白区天白町大字野並相生)  Top
相生山(あいおいやま)は、3つの台地からなる標高60メートルほどの低山で、天白川と扇川に挟まれた鳴海丘陵に位置している。
 全国的に珍しい古赤黄色土の粘土層から成っており、かつては赤褐色の地肌がむきだしになっていたという。
 神社の北800メートルほどのところに菅田遺跡があり、そこからは旧石器時代の石器片が見つかっている。1万年以上前からこの
あたりに人が暮らしていたのだろう。 昭和15年(1940年)に防空緑地とすることが決まり、植林するなどして現在は雑木林が広
がる緑地帯になっている。 北部にある相生山緑地オアシスの森は平成10年(1998年)に開園したもので、今でも初夏になると
ヒメボタルを見ることができる。タヌキやキジなども生息しているそうだ。
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千秋家の墓(HP参照) Top
平安末期、熱田大宮司・尾張員職の娘と、尾張国の目代・藤原季兼との間に生まれ、熱田大宮司を継いだ藤原季範は、号を千秋と
称した。以後、千秋家を名乗り、明治初期まで熱田大宮司としてその祝職を世襲した。
ちなみに季範の娘は源義朝の正室となり、頼朝を生んだ。
由良御前(注※NHK大河ドラマ:平清盛では田中麗奈さんが扮しました。)義朝の正室になり頼朝を出産します。
熱田区誓願寺に「右大将頼朝公誕生舊地」の碑があります。頼朝は母の死後鶴岡八幡宮に追善の塔を建立しました。
千秋家は源義朝の母(由良御前)の実家の源家の事です。
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野並八剱神社(←グロブログ)(住所:名古屋市天白区野並3) Top
本鎌倉街道が裏を走る。鎌倉街道は名古屋市内に入ると野並に至る。
当時の野並は、干潟に面した海岸で、旅人は船で対岸の村上社や八剣社に渡る。この島から再度、熱田神宮に渡るか、陸路雁道
から山王を歩いたと伝えられる。名古屋市天白区史跡散策の道案内(UFG銀行看板の右側)に鎌倉街道として紹介されている。
以下、wikipedia参照
「概要」
古くから野並地区の氏神として鎮座しており、現在は、主祭神の日本武尊を含め合計9柱の祭神を祀っている。9柱を総じて
『八劔大神』と称す。境内には『野並招魂社』があり太平洋戦争にて野並より出征し犠牲になられた方が祀ってある。
また、御祭神の社として山神社・田神社・神明社・秋葉社・欠ヶ上神明社がある。
「歴史」
八劔社のすぐ北側には、かつて『梅野古墳群』があり、八劔社境内も古墳である可能性もあるため、野並村の集落は古墳時代から
あったとも考えられる。
「年表」
1670年頃 - 「野並村 諸役免許 熱田 千秋刑部領 庄ハ不知 社 四ヶ所 大明神 田之神 神明 山之神 社内弐反四畝
廿弐歩 前々除 村中 支配」(寛文村々覚書の野並村の項)とある。千秋刑部は千秋輔家のことで、熱田大宮司家の所領に
なっていて諸役が免除されていた。神社は4社あって、「村中支配」となっているため、八劔社は千秋家のものでもなく、祢宜
の持分でもなかったということになる。
1844年(天保15年) - 「八劔ノ社 當社を村の氏神とす 末社 六所社 秋葉ノ社」とある。当時から野並村の氏神だった事が
うかがえる(尾張志)。
1872年(明治5年) - 7月28日『村社』となる。
1912年(大正元年) - 12月5日境内神社の内、六所神社と熱田社の祭神が合祀した。
2009年(平成21年) - 欠ヶ上神明社が同地区の郷下川沿いに鎮座していたものを境内に遷座。
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野並駅(wikipedia)  Top
野並駅(のなみえき)は、愛知県名古屋市天白区野並にある、名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)桜通線の駅。
2011年(平成23年)3月までは桜通線の終着駅だった。駅番号はS17。
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2025.3.1 友歩会ウオーキング参加の皆さん(菅田神社前)Top

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